アサド大統領は、シャーム・イスラーム国際テロ過激派撲滅センターの開設式に出席、ムハンマド・ムハンマド・アブドゥッサッタール・サイイド宗教関係大臣、共和国ムフティーのアフマド・バドルッディーン・ハッスーン師、ダマスカスおよび同郊外県ムフティーのアドナーン・アフフーニー師、ビラード・シャーム・ウラマー連合のムハンマド・タウフィーク・ラマダーン・ブーティー氏らと会談した。
シャーム・イスラーム国際テロ過激派撲滅センターは、宗教関係省所轄の国立研究所で、ウラマーやハティーブの育成、イスラーム法学やアラビア語学の研究、過激思想撲滅に向けた対策の研究などを目的とする。
アサド大統領は開幕式に参加したウラマーらを前に演説を行った。
演説の骨子は以下の通り:
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「このセンターの活動の本質と関連するいくつかの点について話したい。私がウラマーの前に座って、どのように過激思想やテロと戦うかをあなた方と話すことを予想していなかっただろう。あなた方は数年前からこうした活動を始めてきたからだ。シリア国民はみな、不屈の精神を通じてテロや過激思想と戦っている。勇敢な我が軍も過激思想がもたらすテロと戦ってきた。我が国のウラマーもテロをもたらす過激思想と戦ってきた。だから、私があなた方とここに座って、過激思想の撲滅は、中庸をもって始めらられるとあなた方に言うとは考えてもみなかったと予想している。なぜなら、こうしたことは自明の理だからだ。イスラームは(過激だとの)嫌疑とは無念で、シャームのくにぐには、宗教、社会といった点で歴史的に穏健だ。あるいはこう言いたい。アッラーは我々が中庸のウンマであることを望まれていた。使徒は我々に狂信的にならないよう警告されていた。もちろん、ここでムスリム同胞団の話、そして彼らがイスラームをいかに歪め、そのイメージを破壊したのかを話すつもりはない…」。
「こうしたことは、ほとんどのシリアの市民、アラブ・イスラーム世界の市民やウラマーにとっても自明のことで…、あなた方や我々が知っている情報に留まらない。それ以上のもの、我々が日々暮らすなかで得た真実、詳細、そしてデータなのだ。我々はその結果としてもたらされた負の影響に日々、いやおそらく毎時間苦しんでいる」。
「テロとの戦い、過激思想との戦いはこのセンター発足とともに始まったわけではない。シリアでテロが発生した最初の数ヶ月で既に開始されていたので」。
「我々はシリアで今日、過激思想やテロといった問題をめぐってどのような立ち位置にあるのだろう? センター発足にあたってこのような問いが浮かんだ…。なぜなら、このセンターはテロとの戦いの文脈において拠点をなしているからだ…。我々が拠点にいて、未来に向かって進む場合、我々はどこにいるのかを考えねばならない…。なぜなら未来に向かって計画を立てる場合、現在から出発しなければならないからだ」。
「我々は理論から出発することはできない。今我々が暮らしている現実から出発すべきだ…。ほとんどのシリア人がおそらくこう答えるだろう…。社会における過激思想の兆候は何よりもまず宗派主義的な状況として表れており、こうした過激思想は、かつてないほどに宗派主義的な状況を強めた、と」。
「だが、私は大いなる信頼をもってこう言える。私はこうした意見を尊重はするが、異なった意見を持っている、と…。戦争の当初から宗派主義が利用されてきたことを踏まえると、宗派主義的な反応をするのも至極当然だ。しかし、こうした反応と実際の行動との間には大きな隔たりがある…。こうした意見は不正確で、現実に即していないのだ…。シリア社会の現状は、戦争当初より良くなっているだけでなく、戦争前よりも良くなっている」。
「この戦争は対外戦争だが、そこには国内的要因もあった…。このように考えることで、我々はさまざまな階層からなるシリア人として自らを見つめ直し、これまで以上に互いにコミュニケーションを行い、知り合えるようになった。あなた方はこうした動きのただ中にいたのだ」。
「このような話をするのは、我々が「テロとの戦い」の枠組みのなかでこのセンターが重要なステップを踏み出すにあたって、ゼロから始める訳でも、マイナスから始める訳でもないと言いたいからだ…。現状は戦争前よりも改善されているのだ」。
「我々はまた、戦争を通じて「区別する」ことを学んだ…。「区別する」という言葉で私が意図していることは何か…? 戦争が始まるまで、我々は「宗教に専心すること」(タダイユン)と「宗教を狂信すること」(タアッスブ)を区別できなかった」。
「戦争が起こったことで、我々はその結果を目にした。結果に着目し始めたことで、我々は宗教に専心する人と宗教を狂信する人の違いを区別するようになった。宗教に専心することは建設で、宗教を狂信することが破壊であることを区別し始めた」。
「私は世俗主義を「宗教に専心すること」と対置したことなどない…。信仰と無神論を対置しているのだ…。理由は簡単だ。世俗主義と「宗教に専心すること」は(対立)関係にはなく、また世俗主義と無神論も無関係だからだ…。信仰と無神論は信仰(の有無)に関係がある…。これに対して、世俗主義は行為であり、世俗主義的な教義などというものはないのだ」。
「宗教的過激思想は宗教の産物ではなく、社会の産物だ。過激思想は社会で育まれる社会的産物なのだ…。宗教とは過激思想に与えられる呼称の一つに過ぎず、現象の一つに過ぎない…。過激思想にはさまざまなかたちがあり、その一つが宗教的過激思想なのだ」。
「テロとの戦い、過激思想との戦いは正しい宗教において始められる。我々はそれが自明の理であると考えている…。正しい宗教とは、健全な社会のなかにした見ることはできない…。私は理論化が好きではないので、実際の例をあげると、それがワッハーブ主義だ…。彼ら(ワッハーブ主義者)は宗教を無知によって変貌させ…、宗教を後進性と無知、異常な理解、異常な行為へと変えてしまった」。
「これに対して、シャームのくにぐにの社会は中庸の社会だ…。過去14世紀にわたり、正しいイスラームがもたされてきた」。
「どの社会にも道徳は存在する…。だが、道徳には宗教が必要で、宗教がそれを高めていく…。宗教は道徳を充足させるうえで必要であり、道徳は我々が社会のなかで宗教を維持するために必要なのだ…。正しい宗教にはバランスのとれた社会が必要だ」。
「宗教にはまた、開かれた知性が必要だ…。宗教は広大で深淵であり、閉ざされた知性はシャリーアの表層しか捉えられない。これに対して開かれた知性があれば、その本質、芯を捉えることができる」。
「多くの人が気に留めない重要な点として、宗教と社会におけるそれ以外の帰属の関係がある。どんな人間でも、自分の村、年、家族、宗派、祖国、そして宗教に帰属している。こうした帰属意識のすべてが人間の本質的特性だ…。すべての帰属意識が一つのものなのだ。宗教を裏切る者は、祖国を裏切るし、その逆も然りだ…。宗教に献身することは、祖国に献身することにつながるし、その逆も然りだ。愛国心を高めることは、宗教的帰属を強めることにつながる。宗教だけとうことはあり得ない」。
「最後に意志だ…。意志こそが、あらゆる社会、あらゆる個人を過ちや逸脱から守る唯一のものだ」。
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SANA(5月20日付)が伝えた。
AFP, May 20, 2019、ANHA, May 20, 2019、AP, May 20, 2019、al-Durar al-Shamiya, May 20, 2019、al-Hayat, May 21, 2019、Reuters, May 20, 2019、SANA, May 20, 2019、SOHR, May 21, 2019、UPI, May 20, 2019などをもとに作成。
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