ドゥラル・シャーミーヤ(11月30日付)は、6月のハマー県の北部での戦闘で死亡した「革命のサヨナキドリ」ことアブドゥルバースィト・サールート(バセット)氏の母親(ウンム・ワリード)が、同氏の死後に寄せられた義援金のすべてを、イッザ軍のメンバー40人の結婚のために寄付したと伝え、それを讃える様子を撮影した画像を公開した。
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サールート氏は1992年生まれで、ヒムス市出身。
地元サッカー・チーム(カラーマ・クラブ)でゴール・キーパーを務め、シリアのユース・サッカー代表メンバーだったが、2011年春にシリアに「アラブの春」が波及すると、政権打倒を求める抗議デモに参加し、注目を浴びるようになった。
シリア軍・治安部隊と反体制派の武力衝突が激しさを増すようになった2011年後半に、ヒムス市内で武装闘争に身を投じ、バイヤーダ殉教者大隊を結成、同組織はその後ヒムス軍団の傘下に身を置いた。
サールート氏は、シリア軍との戦闘で度々負傷、シリア軍の暗殺作戦や攻撃によってともに戦っていた父、4人の兄弟、親戚を戦闘で失っている。
シリア軍によるヒムス市への攻撃と包囲が強まるなか、サールート氏と彼らの仲間は2014年に同市から脱出し、同年12月にダーイシュ(イスラーム国)に参加することを決意、同組織に忠誠(バイア)を誓ったとされる。
ダーイシュへの参加は、サールート氏の本意ではなく、ヒムス県で活動を継続するため、資金や食糧を得ることが目的だったとされ、ダーイシュもこの忠誠を「不完全」だとして拒否している。
またサールート氏自身も2015年にビデオ声明でダーイシュとの関与を否定している。
だが、ダーイシュへの接近によって、シリアのアル=カーイダと目されるシャームの民のヌスラ戦線(現在の呼称はシャーム解放機構)の追及を受けることになり、バイヤーダ殉教者大隊はヌスラ戦線と度々交戦、トルコに逃れることを余儀なくされた。
その後、2016年12月にはイドリブ市で行われたアレッポ市救済デモに姿を表し、反体制派支配地域での活動を再開した。
なお、バイヤーダ殉教者大隊は一時(2015年)はヌスラ戦線の傘下に身を置き、ヒムス県タルビーサ市一帯でシリア軍との戦闘に参加している。
反体制派支配地域での活動を再開したサールート氏は、2018年1月にイッザ軍に参加、同組織に所属するヒムス・アディーヤ旅団の司令官として、6月に死亡するまでハマー県北部でのシリア軍との戦闘を主導していた。
サールート氏はドキュメンタリー映画『それでも僕は帰る:シリア、若者たちが求め続けたふるさと』(タラール・ディルキー監督、2013年)に出演したことで、欧米諸国や日本で広く知られるようになった。
デモ指導者から戦闘員となったサールート氏の軌跡を追ったこの映画は2014年、サンダンス映画祭(Sundance Film Festival)のワールド・シネマドキュメンタリー部門でグランプリを受賞した。
サールート氏はまた、ドキュメンタリー映画『シリアの悲痛な叫び』(エフゲニー・アフィネフスキー監督 、2017年)にも出演している。
その美しい歌声から「革命のサヨナキドリ」として知られるようになった。
AFP, November 30, 2019、ANHA, November 30, 2019、AP, November 30, 2019、al-Durar al-Shamiya, November 30, 2019、Reuters, November 30, 2019、SANA, November 30, 2019、SOHR, November 30, 2019、UPI, November 30, 2019などをもとに作成。
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