ドゥラル・シャーミーヤ(6月1日付)は、シリアのアル=カーイダであるシャーム解放機構のアブー・ムハンマド・ジャウラーニー指導者が最近行ったイドリブ県ザーウィヤ山地方住民との懇談で、自身の素性を初めて語ったと伝えた。
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同サイトによると、「我々が知らないジャウラーニーという人物は誰なのか? 彼が誰なのか皆が訊ねている」という住民らからの問いかけに対して、ジャウラーニー指導者は「1980年あるいは1981年生まれで、占領下ゴラン高原のフィーク町出身のアフマド・フサイン・シャルアだ」と答えた。
ジャウラーニー指導者はまた「私の家族は首都ダマスカスに避難し、そこで暮らすことを余儀なくされた。父は政府の高官を務め、内閣でも勤務した。石油関係の著書を出している」と付言した。
さらに「父はシリアとエジプトが分離した時、政治難民としてイランに逃れ、そこに定住した。その後、サウジアラビアに移り、幾度かの旅行や転居を経て、アフマド・フサイン・シャルアが生まれた。彼には3人の息子と2人の娘がいる」と続けた。
自身の経歴については、「ダマスカス大学理学部で、1年次と2年次を学んだ後、2003年に米国がイラクに侵攻し、戦争が勃発、数千という若者たちと同じく、米国に対する「ジハード」に参加するためにイラクに行くことを選択した…。しかし、イラクで逮捕され、2011年3月11日まで投獄された。釈放後にシリアに移動した」と述べた。
シリア国内の刑務所で収監されていたとの情報、イラクからシリア政府に身柄が引き渡されたとの情報については否定した。
また4人の妻がいるとの情報については、「妻は1人しかいない」と否定、子供の有無については明らかにしなかった。
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ドゥラル・シャーミーヤによると、父が出版した著書4冊のうち3冊は『アラブの祖国における石油と包括的成長』、『サウジアラビアの経済開発と成長の未来』、『基本設備建設段階のサウジ経済』で、サウジアラビア滞在中の1983~1984年に公刊された。
4冊目は、『OPEC、1960~1985年:大変動と続く挑戦』で、1987年にダマスカスで公刊された。
ジャウラーニー指導者の父は、石油省で勤務した後、首相府の顧問を務め、クナイトラ県議会の議員にも選出されたことがあったという。
また、ハーフィズ・アサド前政権、アサド政権に対して批判的な立場をとり、経済学者のアーリフ・ダリーラ氏が主催した「火曜経済フォーラム」、ビジネスマンで人民議会議員も務めたリヤード・サイフ氏が立ち上げた「国民対話会議」に参加、2011年3月にアラブの春がシリアに波及すると、「シリア革命」を支持したが、武装闘争には反対したという。
AFP, June 1, 2020、ANHA, June 1, 2020、AP, June 1, 2020、al-Durar al-Shamiya, June 1, 2020、Reuters, June 1, 2020、SANA, June 1, 2020、SOHR, June 1, 2020、UPI, June 1, 2020などをもとに作成。
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