アサド大統領は、「教師の日」(3月17日)に合わせて、20年以上にわたって教職活動に従事してきた全国各県の教員、優秀な新任教師、カリキュラム開発・作成者、教育部門関係者らを前に演説を行った。 SANA(3月17日付)が伝えた。 アサド大統領の主な発言は以下の通り。 https://www.youtube.com/watch?v=VGhCmE77roQ https://www.facebook.com/Syrian.Peoples.Assembly/posts/4270925099676967 人、心、思考を作る戦いの兵士、無知や後進性にかかる諸概念を矯正する戦いの兵士、我々の自我、文化、帰属を防衛し、我々の子供たちを意識、科学、知識で守る兵士であるみなさん教員を歓迎する。教員の日を祝しておめでとうと言いたい。 この省は教育省(وزارة التربية、直訳すると「養育する省」)と名付けられたのであって、「教育する省」(وزارة التعليم)、「教える省」(وزارة التدريس)、「学校省」と名付けられた訳ではない。なぜなら、道徳のない知識は害をもたらすからだ。愛国心のない知識は、祖国の破壊をもたらす。だから、教師とは、単に教える人間であってはならない。教師は育む者、教え育む者、知識をもって育む者、良い模範となって育む者である。学校とは家庭を補う場であり、教師は家族とともに仕事を全うし、家族が次の世代、あるいは未来の男性と女性を育てるために始めたことを全うする。だから、社会、あるいは祖国、あるいは国において、職業レベル、社会レベル、全国レベルで欠陥が生じれば、最初に指摘されるのは教育セクターである。養育とは家庭、学校…、家族、教師のことだ。 養育とは、社会における個々人、個々の家族、個々の専門だ。つまり、それは祖国そのものだ。教育が興隆すれば、祖国も興隆する。教育が衰退すれば、祖国が衰退する。今日、シリアに対する戦争が勃発してから11年が経った。年月を経て、それぞれのシリア市民にとって問題はより明白になっている。この戦争の当事者たちは、一戦場であるシリアを含む全世界において覇権と支配をめざす西側であれ何であれ、明白になっている。アラブ、域内、あるいは西欧の優柔不断な体制であれ、シリア国籍を持っているにもかかわらず、祖国の魂や遺産を担っていない者であれ…。こうした者こそがこの戦争においてもっとも重要な当事者なのだ。なぜなら、彼らは見ず知らずの外国人を招き入れる窓口、シリアで起きたすべての陰謀のカギとなってきたからだ。戦争の教訓は、こうした状況を分析することができなければ、役立てることはできない。彼らは同じ祖国で共に暮らし、同じカリキュラムのもとで学んできた。歴史のなかで実際に存在した授業を共に学んできた。しかし、彼らは逆の方向に向かっていった。少数ではあったが、一部のシリア人はシリアの歴史や社会の本質とは逆の方向に向かっていった。 こうした要素、あるいは当事者とは別に少なからず重要な要素もある。それは国を愛していたにもかかわらず、戦争当初に何が起きているかを知ろうとする意識を充分に持っていなかったシリア人である。彼らは、シリアで起きていることが、政治的な意見の相違ではないとして、意図せず誤ったメッセージを国外に発信し、外国、テロリストを煽ってしまった。政治的に意見を異にすることは自然なことで、人々は異なった意見を持っている。しかし、彼らは祖国の分断を見せてしまった。祖国が分断される時、つまり祖国の基礎が正しくない時、それは、シリアへの介入にふさわしい黄金のチャンスを探すことができるというメッセージを外国人に与えてしまう。 彼らは言論の自由と言論の混沌を混同した。彼らにとって、さまざまな問題について話すこと、宗派主義であれ、人種主義であれ、何であれ、分断の言葉で話すことが、祖国の破壊を意味せず、言論の自由となってしまった。反論することで混沌を正当化し、改革を主唱することで破壊を正当化した…。汚職や既存の過ちを正すために街頭に出た者は、政府と反政府勢力ではなく、政府と国家を混同し、国家を破壊しようとしたが、「外国の干渉」が何を意味するのかを評価せず、破壊を支援させるため、シリアの戦場に外国の大使らを招き入れてしまった。彼らはその後気づいたが、意識のレベルに至った時、時すでに遅しだった。その時には破壊列車はシリアで発車してしまっていた。 これまでに述べた例は、社会の一部成員が深遠な意識を欠いていたことを表している。これらの人々が大人ではなく、子供だとしても、それは恐ろしいだと言いたい。なぜなら、祖国の治安と安定は意識に根差しており、意識、愛国的な意識とは一義的にもっとも重要だからである。それ以外の要素も安定のためには重要だが、意識という要素がなければ、それらには何の価値もない。 もちろん、養育はこうした意識を形成するもっとも重要な要素だ。それゆえ、戦争のただ中にあってもこう自問している。戦争はあらゆる場所に拡がっているようだが、我々の教育制度は、高い意識を持ち、有能な者を育てるのに効果的に貢献することができるだろうか? 知的・心理的崩壊、さらには社会崩壊、そして祖国の崩壊に立ち向かう新たな世代を守ることができるだろうか? なぜ今このように問うのか? 養育制度は幾世代にもわたってこうした意識に貢献してこなかったのか? 我々のほとんどはこの制度のもとで育ってきた。だが異なっているのは、1990年代以前の教育と愛国意識の育成、外国の影響から社会を守ることは簡単だったということだ。衛星放送、インターネットといった類のものはなかった。それぞれの社会はほぼ隔絶状態で、それぞれを結ぶコミュニケーションはあったが、限られたものだった。1990年代になって衛星放送が開始され、外国の影響を受けるようになった。もちろん、2000年代になって、インターネットも導入された。我々は皆、今日、SNSが我々に何をしているのかを考えながら暮らしている。教育関係者…、カリキュラム…、養育・教育システムのあらゆる側面において、こうした意識を作り出そうとするプロセスは非常に困難で複雑になっているということだ。だが、このことは当時、技術面、SNSの不在ゆえに世界が置かれていた隔絶状態が良いものだったということを意味しない。逆に、他の文化と交流することが、社会の発展と活動領域の拡大にとってもっとも重要である。 ただし、それは、我々が確固たる愛国的な人格をもって守られていることが条件となる。んぜなら、多文化とのコミュニケーションや交流は、統合プロセスとは違うからだ。我々は自分たちが世界の文化の一部だと考えている。我々は歴史的な多様性、そしてさまざまな文明のなかに身を置いてきたおかげで、優れた統合力を持つもっとも重要な社会の一つである。だが、我々が統合されることと、我々が溶解してしまうことの間には大きな違いがある。それゆえ、この問題に関して、養育には、シリア社会のさまざまな階層をまとめる愛国的人格、愛国的・民族的自我を形成するという重要な役割がある。 二つ目の問いに移ろう。それは、我々が対処することが危険だと考えている大きな亀裂に注目することだ。それは戦争とは無関係の否定的側面の一つなのだが、戦争で明らかになった。この否定的な側面を得的する能力がある階層、あるいはセクターは教育セクターである。なぜなら、日々学生と接しているからだ。 三つ目の問いは、一つ目と二つ目の問いから生じるもので、それは我々が養育制度において欲しているものをもたらす糸口になる…。卒業生とは誰で、どのような資質を持っているか、我々が求めている未来の市民とは誰なのか? この問いに答えるには、我々が今日暮らしている環境全般から話を始めるのがいいだろう。我々はみな、大人であれ、子供であれ、今日、情報化時代のなかで暮らしている。スマートフォン、コンピュータ、SNSなどがあることで、情報と情報をつなぐ10倍の情報が存在し、分析する時間を与えない。だが、これほどの情報規模にもかかわらず、多くの世代を進歩させなかった。むしろ逆に後退した。かつての世代は少ない情報しか持っていなかった。だが、彼らにはより優れた分析力を持っていた。我々は今日、こうした能力、あるいは技能を失ってしまっている。それゆえ、正しい思考回路を持つ世代をどのように育成できるかを考えねばならない。我々が正しい思考回路を持てば、こうした膨大な情報は生徒、そして社会にとって有益なものとなる。そしてそうすることで、情報が我々に投資する段階から、我々自身が情報に投資できる段階に移行できるだろう。我々が情報に投資する時、風評は排除され、SNSでしばしば生じるリモートドライブをめぐる問題は、我々にとって解決済みの問題となる。我々は現在、情報を分析していないがめに、リモートドライブされてしまっている。情報化時代において、我々には分析が必要だ。我々が記憶している歴史は、歴史の授業で何らかの結論に至らねば、価値はない。これが分析の価値だ。我々には今日、数学以上に歴史の分析が必要だ。我々には、課題から逃げることなく、それに立ち向かう世代を育成する必要がある。眼前に直面すべき問題が現れても、逃げたり、無視して暮らしたりすることのない世代を。解決を期待するのではなく、自発的に解決策を探す活発でイニシアチブのある世代が必要だ。無へと導くような欲求不満に屈することなく、現実を変革しようとする世代が必要だ。最新技術、SNSを制御し、時間とエネルギーを浪費して無為に暮らす人間になるのではなく、これらを自身にとってのサービスや利益に変えるができる世代が必要だ。 我々は祖国に帰属する卒業生を欲している。自分が身を寄せている待遇の良いホテルを祖国と表現し、サービスが悪くなったら他のホテルに移動するようなことのない卒業生をだ。ホテルを例として話す時、地理的な場所を意図しているのではない。様々な理由で出国、移住した人々の話をしているのでもない。知識を求めて出国した人もいるだろう。仕事を求めて出国した人もいるだろう。様々な理由がある。ホテルということで意図しているのは、シリアで暮らしているにもかかわらず、心が外国にいる者のことだ。外国で何年も暮らしていても、心はシリアに留まっている者は何人もいる。 彼らのなかには、祖国を支援するために、様々な国にいながら、多くのビジネスに携わる者もいる。中立の立場をとり、無関心であるかのような人もいる。西側にシリアを爆撃するよう説得する努力をした者もいる。つまり、祖国がホテルだという時、それは地理的な場所ではなく、帰属、そしてこの国への見方を意図している。どこにいても心が祖国とともにある人がいる。我々は、自らを個として捉えるのではなく、全体の一部だと考える卒業生を欲している。自らの利益を全体の利益と考え、他者を犠牲にするのではなく、他人とともにそれを役立てようとする卒業生を。与えることの意味を知っている利他的な者、自分のことしか考えない利己的でない者…。個人の利益のために祖国や国民の利益を犠牲するのではなく、自分の祖国のために犠牲になる用意ができている者。 こうした世代をどのように育成するのか? 我々は愛国的意識、分析力をもって育成する。これこそが基礎だ。すべてはこの二つが確立してからもたらされる。技術面において、我々は、情報に埋没するのではなく、技能を開発することで彼らを育成する。我々に不足しているのは技能だ。ご存知の通り、情報は我々のカリキュラムに溢れている。だが、技能に乏しい。つまり、我々は知識を得ているが、技能を欠いている。知識は専門化の際には有益だが、技能な社会にとって有益だ。別の技能、すなわち我々の社会においてきわめて脆弱なコミュニケーションの技能の向上に話を移そう。自信をもって存在を示し、異なった他者を説得・対話する能力。こうした能力が概して欠けている。異なる他者と対話する能力という場合、非常に重要なもう一つの話題について話したい。それは、シリアの多様性だ。社会的多様性こそが、シリアの自我の基礎をなしている。この多様性はあらゆる多様な社会が持つ強みである。同時にこうした社会にとって最大の弱点でもある。どうしてか? 我々はそのように見ているのだ。こうした多様性が豊かさだと見るのであれば、その豊かさは多様な社会成員間の継続的対話を通じてもたらされる。それが意見の相違、あるいは差違だと見るのであれば、必ず弱点になる。だから、我々は、シリアがこうした多様性なしに存在し得ないことを踏まえねばならない。シリアの多様性が減じることはあり得ず、シリアが最終的に一つの色になることもあり得ない。こうした意見の相違、こうした対話から次に価値観の問題について話したい。なぜなら、対話、そして他者を受け入れることは、社会的価値観の一部をなしており、それに基づいて我々は学生を養育しなければならないからだ。意見の相違を受け入れることは、信条、単なる意見、文化の相違であれ何であれ、祖国を守るとともに、愛、正義、尊敬(自身、目上の人、教師、そして知識を敬うこと)といった価値観を確立するうえでの基本的な価値観の一つなのだ。過去20年間にわたり他の文化の影響を受けて徐々に失われてきたあらゆる尊敬の念だ。また、自由な振る舞いと無礼も混同されている。我々には包括的な授業科目がある。だが、これらの科目を結びつける科目がしばしば欠けている。我々はしばしばカリキュラムと目標を一つにして話してしまうが、専門分野間での対話なくして別個にカリキュラムを作ってしまっている。学生が、一つの目的に向かっているのに、様々な科目においてバランスを欠いたかたちで様々な方向に向かっていると感じれば、学生にとって弱点となる。教科書間で一部情報の間に矛盾した記述があることもある。これでは、カリキュラム作成者がどんなに努力をしても、期待されるメッセージをもたらすことはできない。連携することが特に必要なのだ。また、科目間の内容、サイズ、社会のニーズを連携させる問題もある。我々には現在何が必要なのか? 我々には、エンジニア、医師、法律家が必要なのか、あるいはプログラマーが必要なのか? 世界は今後10年、あるいはそれより先にどこに向かうのか? 今後20年で、すでに現代の我々が身を置いているあらゆるものを支配しているAT化に向かい続けるのだろうか? 我々はどこに向かっているのか? 我々は彼らをこれまでとは異なった別の方向、すなわち職業教育へと向かわせるのか? 我々は常々、小規模なプロジェクトについて話す時、戦争を度外視しても、それがシリア経済の基本的ニーズだと見ており、経済の構築は、基本的には小規模なプロジェクトに依存していると考えている。だが、我々にはより多くのエンジニアが必要なのではないか? 職業教育は高等教育に続くものであるにもかかわらず、ここからさらに別の問題に話が及ぶ。それは、養育と高等教育、さらには中等教育のカリキュラムの連携である。しかし、我々は今後数十年で、どこに向かうかを決めなければならない。なぜなら、今1年生で5~6歳の学生は、10年、あるいは12年後には大学で何らかの専攻を学んでいるからだ。もちろん、この問題は養育だけでなく、養育、そして高等教育にかかわっている。 カリキュラムと、シリアが経験したすべての愛国的な事柄から得た教訓を結びつけること。我々はアッカド人、アッシリア人、バビロニア人、アムル人、フェニキア人から、近代植民地主義、とりわけ英仏植民地主義から情報を得ている。だが、現実問題として、今の世代に関係があるもっとも重要な段階とは「同胞団の段階」、ムスリム同胞団がテロを行った1980年代という段階である。なぜなら、この段階が、今日我々が直面している戦争の基礎を作り出したからだ。未来の市民になる生徒と愛国的な経験を共有しておらず、つながりもないなかで、彼にどのように愛国的な意識を持つよう求めることができるのか? この学生は、今起きている戦争と1980年代に起きていた戦争の関係を知らないばかりか、現在の戦争の始まりさえも知らない。こうした重要な愛国的経験は、未来のカリキュラムや愛国的意識確立の基礎をなしていなければならない。 我々は学生やカリキュラムについて多くを話した。だが、教師についてはどうなのか? もちろん、これまでに実質的に述べてきたことはすべて、学生ではなく、教師についてだ。学生はパートナーではなく、教育を受ける側だ。より重要なパートナーは家族だ。これは当然のことなのだが、実際のプロセスを推し進めるのは教師だ。教師には今日、あらゆる行政システムがそうであるように、資格を扱う一方で、職務上の役職、イニシアチブ、そしてこれらの役職にかかわる物的インセンティブを資格と結びつける統合システムが必要だ…。だから我々は統合システムを構築し、それを始動なければならない。私は関連法における最後の仕上げが今や養育のなかにあると考えており、関連する委員会での検討を経て内閣に法案が提出され、心理面、そして技術面での支えになるが、それは、教師にとって物的にもっとも重要である。養育セクターは最優先事項であり続けるのは、知識によって武装し、分析能力に長け、時代の要請と共に歩むことができる意識の高い市民がいなければ、我々が今日様々な分野やセクターで直面している問題の解決策は、部分的で短期的なものとどまったままだろう。こうした未来の人間を育成する時、状況は根本的に異なったものとなるだろう。我々は今日、意識が高く忠実な市民のおかげで戦争を行い、祖国を防衛することができた。だが、それに非常大きな代償を払った。我々は将来、我々が探し求めているこうした市民――今はシリアの教育機関の学生――に、防衛だけでなく、それ以上のことを行い、自分たちの国を戦争から未然に防げるようになって欲しい。我々は分析力があり、外国から入り込んできた諸々の概念を打ち崩し、毒を打ち消す能力のある個人を欲している。こうした意識の高い個人は外国の概念に囚われ、我々が現在目にしている通り、社会にとって異質な存在、あるいは過激主義、政治的、社会的、文化的、宗教的過激主義に陥ることはない。個人が意識を高く持っているということは、社会全体が高い意識を持っていることを意味する。この社会が前もって計略を見抜き、この地域において止まることのない様々な陰謀の遺伝暗号を破壊することができる。また、我々みなが目にしている通り、世界は安定には向かっておらず、まったく逆に戦争が拡がっていて、そこには安定はない。それが目に見える範囲で見ている現実だ。今日起きている様々な出来事そのものの詳細に我々は深く関わっておらず、過去に起きた様々な出来事とこれらの出来事を結びつけることはできない。これらを結びつけることができるようになった時、我々は未来を読み解くことができるようになる。同時に、我々はこれらの出来事を戦争中、そしてそれ以前のシリアの姿勢、シリアの古くからの政治姿勢と結び付けなければならない。我々がこれらを結びつける時、我々はある時のシリアの見方が正しかったのか、誤っていたのか、現実的だったのか、現実から乖離していたのかを言うことができる。それゆえに、今日起きている出来事について言及したかった。その本質は今日も、そして過去においても西側だ。なぜなら西側は何百年、あるいは200年以上にわたって、世界の政策を動かし、世界に悪いかたちで影響を与えてきたからだ。過去200年に及ぶ世界の問題のすべての原因は、西側が自らの利益を実現しようとして常に行ってきた戦争、占領、殺戮にある。何らかの問題について話したいと考える時、現代との共通項について話さざるを得ない。それは第1に、世界の苦しみの原因、今述べた通り、西側にあり、第2に、オスマン帝国が1916年に出て行って以降、シリアやこの地域で100年半にわたって続いている我々の苦しみが、フランスによる直接占領から今に至るまで、シリアへの陰謀を止めようとしない西側諸国に結びついているからである。また、西側は今日、より厳密に言うとウクライナでの戦争以降、自らの役割、存在、イメージにかかわる歴史的分岐点に立っている。シリアとリビアでの戦争は大きな影響を及ぼした。だが、ウクライナで今起きている戦争は、西側の役割にとって完全な分岐点だ。ソ連崩壊は重要な分岐点だったが、西側は自らが協力だと考えていた。だが、真の変化は第二次大戦の時から起きていた。今回は第2の大きな変化だ。すべての問題と混乱が西側と関連しているので、それに関連したいくつかの点を指摘したい。我々シリアにとって、そのほとんどは古くからあったもので、真新しくはない。だが、西側の民衆にとってそれは新しいものだ。世界でだまされてきた多くの人々にとっても新しいものだろう。それは、数日、数カ月、数年ではなく、おそらく数十年にわたって、我々がそれに依拠して自らの未来のヴィジョンを作り出しているものだ。第1の点は、帝国主義的な西側…、私がこういう時、国民のことを言っているのではなく、西側の体制、西側の政策を主導する組織のことを言っているのであり、西側という時も、それらと緊密に動いている組織、ロビー、政府、あるいは体制のことをいっているのだが、その帝国主義的な西側は歴史を経てもいまだにまったく変わっていないということだ。いかなる変化も起きていない。違うのは、米国が1950年代に英国とフランスにとって代わり、これらの含む西側諸国が米国の政策に従属し、西側がそれ以前にも増してウソ、偽りを言うようになり、巧妙な仮面を身に着けて、様々な国民を従属させ、数十年にわたってそれをやり通してきたことだ。 西側は今日、人道的な概念を多用している。だが、世界の諸国民に対してこれまで以上の犯罪を行っている。しかし、実際のところ、数十年にわたって纏い続けてきたこうした仮面はいずれもシリアを一度たりとも騙すことはできなかった。これがシリア、そしてシリア国民との西側との問題だった。しかし、シリアで起きた様々な出来事によって、西側はこの仮面を徐々に剥ぎ取られることを余儀なくされた。ウクライナの戦争が始まり、西側は残った仮面も一度で剥ぎ取られてしまった。西側はまずはその民衆の前、続いてそれ以外の諸国民の前で完全に裸の状態となった。だが、仮面を剥ぎ取られた代償は大きかった。仮面を剥ぎ取られたことで、第二次大戦以降に築かれることになった西側のウソのプロパガンダの基礎が破壊された。第1に、西側は国際法にまったく関心がなく、もっとも多くを破壊してきたことが立証された。我々が西側という時の筆頭は米国だ。米国は過去数十年にわたって国際法の制度をもっとも踏みにじり、世界を密林へと変貌させた。若干のロマン主義と単純さをもって次のように自問する者もいるだろう。ウクライナへのロシアの介入の法的正統性、法的根拠は何なのか、と。我々は法律というのが文言ではなく、実行であることを知っておかねばならない。つまり、国に成文法があっても、司法がなく、判事も警察もいなければ、法律に何の価値があるのか? そのような国は密林同然だ。法律を尊重する者はだれもそうした国に居場所はない。そうした国は法律違反者、盗賊と盗人だけのものとなるだろう。事実、世界はソ連崩壊以降、密林状態で、西側が盗人だった。国際法など存在しなかった。国際機関も何もなかった。実体がなく、適用もされていない国際法について話すことは、意味のない言葉を発するようなものだ。ロシアの首脳らは15年前から公然と名言してきた。西側がめざす政策は力の政治だ、と…。彼らが世界を密林に変えようとしているのだ。西側がよりどころとするもっとも重要な基礎の一つである表現や言論の自由について言うと、それは深淵に陥ってしまっている。少なくともジョージ・ブッシュ・ジュニアが20年ほど前に現れてから、アラブ世界全体が、政府、ロビー、企業、メディア、そして最近ではSNSから発信される一つの意見によって、同じ方向へと動かされた。数千万人が暮しているにもかかわらず、一つしか意見がない民主的なこの西側とはいったい何なのか? 米国がシリアに怒ると、世論全体が、突如として同じ概念を駆使してシリアに反対するようになる。 彼らがシオニズムを擁護したいと考える時、こうした状態は続く。みなが同じ言葉で話すのだ。最近では、彼らはロシアに怒り、ロシアへの暴力を許すようになった。しかも意見は一つしかなかった。実際、言論の自由や表現の自由は、西側と同じ意見を持つということだった。これが真実だ。所有の自由は資本主義体制における手中の一つだ。そして彼らが最近になってロシアに怒ったとたん、彼らは在外ロシア人の財産のすべてを没収した。国家であれ、ビジネスマンであれだ。このことはシリア人の財産、リビア人の財産、そしてそれ以前はイラク、イランなどの財産が没収されたときのことを完全に思い起こさせる。つまり、所有の自由とは、西側が他人の財産を所有する自由ということだ。西側は自分たちと異なるすべての人に激しい人種主義と憎しみをむき出しにする。これは、我々が考えているように、イスラーム教徒に対してだけでもなければ、アラブ人に対してだけでもない。みなに対してだ。我々が今日目にしているロシアへの憎しみを、我々な歴史において一度も目にしたことなどなかった。だが、この憎しみは真新しいものではない。この憎しみは数世紀にわたってロシア、そして他者に向けられてきた。第二次大戦における重要な一例として、西側はヒトラーがロシアに侵攻した時、おおいに満足した。ロシアで2600万人以上が犠牲になったことには誰も言及しない。ヒトラーとの間には何の問題もなく、彼を攻撃しようともしてなかった。彼らはヒトラーが敗北を始めた時に攻撃を行った。第二次大戦の最終段階において、ロシアが勝利を独占すると考えていた西側は、それを阻もうとして、ノルマンディーに上陸した。西側は自分たちに友人も敵もいないことを立証した。唯一の敵は自らの俗物的な利益に対峙しようとするすべての者なのだ。つまり、共産主義でも、イスラームでも、ナチズムでも、中国でも、ロシアでも、それ以外の何者も西側の敵ではない。自分たち利益にかなっていれば友人で、それに反すれば敵なだけだ。つまり、原理原則などないのだ。だが、別の真実もある。それは、さらに醜い現実で、それを知っている者は少ない。それは、西側がナチズムに反対していることが嘘で、シオニズムがナチズムに反対していることが嘘だということだ。ウクライナのナチスがヒトラーと治安面、軍人面、イデオロギー面で緊密に協力していたナチスの組織であることを知っている者は少ない。第二次大戦が終わった時、一部の幹部は欧州に逃れ、その一部がウクライナに逃げた。1950年代になって、米国のCIAがこれらのナチスのグループの活動禁止を解除するよう要請した。なぜなら、米国は当時ソ連の一部だったウクライナで彼らを必要としていたからだ。この言葉、歴史的言葉から現在明らかなのは、ゼレンスキーがユダヤ教徒のシオニストだが、第二次大戦を戦っていた過激な民族主義組織を支持しているということだ。ヒトラーが入った侵攻した時、その一部はユダヤ教徒に対する虐殺に参加した。このシオニストのユダヤ教徒がどのようにこうした組織を支援していたのか? 今日アゾフ大隊と呼ばれているこれらの極右組織とホロコーストの犠牲者を悼み続けるシオニストの「イスラエル」を、西側が支援しているのだ。ユダヤ教徒を殺したナチスを支援する指導者を支援している。このことは、西側の言うことが真っ赤なウソで、西側にとっての関心事が世界の支配、資源の簒奪、そして蓄財であることを示している。 しかし、我々にとってこうした言葉の何が重要なのか? 我々にとっての関心事は、シリアが数十年前に西側とのかかわりを持ち始めた当初から、狂信主義に根差していなかったということだ。シリアは狂信的、非現実的で、世界地図を正しく理解していないと非難されてきた。しかし、我々は、自分たちの権利、現実的ヴィジョン以外の何ものにも依拠していない。なぜなら、西側が我々に何も与えてはいないからだ。 つまり、シリアのヴィジョンや姿勢が正しいことは立証されてきた。第2に、我々は西側が視野を変えることに賭けたりはしない。なぜなら、数世紀にわたって代わらなかったものを数十年で変えることはできないからだ。また、西側がいつかシリアなどの国において我々の関心事である何らかの問題において、客観的で公正で支えとなるような役割を果たすなどとは考えることはできない。 第3に、このことは、シリアの国家、シリアの政府が17年前の2005年に東方に向かって提起していたことが、これまで以上に正しいものとなっていることを意味している。なぜなら、第1に、さまざまな出来事によって、我々が西側に依存できないこという真実が立証されたからである。また第2に、我々が言及している東方が、封鎖、優越主義、そしてあらゆる分野で我々の運命を支配しようとする姿勢とは無縁で、なお且つ世界のほとんどの国々のニーズを満たす能力のある発展した東方となったからである。 我々は今日、技術、知識、組織、管理といった面での西側の進歩を疑ってはいない。だが、政治としての西側が道徳的に大敗した西側であることを我々は疑っていない。約言すると、このイメージは西側に対する我々の将来のヴィジョン、対応の仕方をかたちにしたものであり、過去数十年を通じて作り出されたヴィジョンと寸分も違わない。我々が目にしている通り、世界は紛争へと向かっている。この紛争の代償は、この世界のすべての側面、とりわけ経済においてすべての人に影響を与えている。我々はこの世界の一部であり、我々は真剣に自らの前にある問題の解決策を考え、急速に影響が及ぶこの深刻な現実に立ち向かわねばならない。 もちろん、可能性は少ないが、それでもある。しかし、我々にはダイナミックな知性が必要だ。また、解決策を生み出すための力強い意志も必要だ。生活や経済といった問題に関して簡単な質問をしたい。我々に何ができ、何ができないか? 新型コロナウイルスの感染拡大危機が発生して以降、物価はとどまることなく世界的に高騰している。だが、ウクライナでの戦争が発生し、小麦、金属などあらゆる物の価格はさらに急上昇した。程度に差はあれ値上がりしていないものはない。この戦争が続くことで、物価が上昇する現状は続くだろう。我々が外国で価格を変動させることはできるか? もちろんできない。それは我々の完全に影響の圏外にある。我々は国内で何かできるか? もちろんできる。我々は生産を支えることができる。我々が話しているのはこのことだ。我々は過去1~2年で生産、とりわけ新規プロジェクトを刺激できたか? もちろんできた。だが、同時にさまざまな状況によって生産が影響を受けた。第1に、外国での価格高騰、第2に電力事情だ。しかし、いかなる代償を払おうとも生産を支援する以外に選択肢はない。そして、アッラーが望めば、我々はそれを実行できる。だが、電力問題が生産者にとって最大の障害となっている。もちろん、この問題を解決する明確なヴィジョンはある。ソーラーエネルギーのことだ。10月に到着する予定だった第1陣の発電キットが3月初めに到着し始めている。だが、製造業者、海運手段に大きな圧力がかかっており、5カ月以上も遅れてしまった。到着した発電キットだけでは、電力事情を改善することはできない。だが、私は言いたい。これらの設備は、我々が期待していたよりも時間を要してしまっているが、徐々に届き始めている。 もう一つも問題は、すでにはる発電所だ。困難な努力の末、我々は多くの発電所を再開するのに必要な部品を確保する方途を見つけることができた。我々は支援可能な専門家を確保できた。必需品の一部はまだ確保できていないが、専門家の見解によると、秋ごろには大きな変化がもたらさせるだろうとのことだ。重要なのは、事態は良い報告に向かっているということだ。我々はすべての要因を掌握できてはいない。その大部分は国外の要因だが、こう言いたい。いかなる困難があろうと、それらが我々による状況改善を妨げるものではない。我々が掌握していないのは、スケジュールだけだ。だが、今でも我々はこれらのセクターにおいて我々が重要だと考えている物的な必需品を掌握できている。 いずれにせよ、これらの事柄すべてに対処することは不可能ではない。知っておかねばならないのは、どれほど状況が厳しくとも、まったく不可能でないということだ。とはいえ、容易でないことだけは確かで、代償がない訳でもない。国外での物価高騰により、我々はその対価を支払うことになるだろう。だが、我々は幼稚な意見ではなく、成熟した意見を必要としている。模倣した意見ではなく、斬新で革新的な意見を。 改めて、今回の面談に満足の意を示したい。みなさんは知のメッセンジャーであり、祖国の世代の未来の担い手であり、我々の民族の自我、民族の文明の本質、そしてその存続を培う原理や価値を守っている。 みなさんが仕事で成功することを願っている。みなさんの成功は祖国のための成功である。おめでとう。そしてありがとう。 AFP, March 17, 2022、ANHA, March 17, 2022、al-Durar al-Shamiya, March 17, 2022、Reuters, March 17, 2022、SANA, March 17, 2022、SOHR, March 17, 2022などをもとに作成。 (C)青山弘之 All rights reserved.