ロイター通信(12月13日付)は、アサド政権高官などの情報をもとに、アサド大統領がロシアに亡命する直前の様子の詳細について伝えた。
記事の概要は以下の通り。
アサド大統領は政権が崩壊に向かうなか、シリアを脱出する計画についてほとんど誰にも打ち明けなかった。関係者や出来事を知る複数の情報筋によると、側近や政府関係者、さらには親族に対しても嘘をついたり、計画を隠していた。
モスクワへの脱出の数時間前(12月7日)、アサド大統領は国防省で約30名の軍および治安関係の幹部と会合を開いた。同会合に出席していた司令官の1人が、匿名を条件にその内容について明らかにしたところによると、アサド大統領は、ロシアからの軍事支援が間もなく到着するとしたうえで、地上部隊に抵抗を続けるよう求めた。
アサド大統領の側近の1人によると、大統領は土曜日、勤務を終えた後、自宅に戻ると大統領府事務局長に告げたが、実際には空港へ向かった。 アサド大統領は、ブサイナ・シャアバーン大統領府特別顧問に電話をかけ、演説を書くために自宅に来るよう依頼したが、彼女が到着すると、そこには誰もいなかったという。 アサド大統領の側近3人の話によると、実弟のマーヒル・アサド准将さえも脱出計画を知らせていなかった。ある情報筋によれば、マーヒル准将はヘリコプターでイラクに入り、その後ロシアに移動したという。 アサド大統領の母方の従兄弟であるイハーブ・マフルーフ氏とイヤード・マフルーフ氏も、側近やレバノンの治安当局によると、置き去りにされ、2人は車でレバノンに逃亡しようとしたが、その途中で反体制派の邀撃を受け、イハーブは銃撃されて死亡し、イヤード氏も負傷したとされる(ただしこれについては事実確認はとれていないという)。
中東地域の外交官2人によると、アサド大統領は12月8日(日曜日)、航空機で首都ダマスカスを脱出した。機体のトランスポンダーは切られ、レーダーに映らないかたちで離陸したという。
3人の側近と外交官1人によると、アサド大統領はラタキア県のフマイミーム航空基地に飛び、そこからモスクワへ向かった。彼の妻アスマー氏と3人の子どもたちはすでにロシアの首都で彼を待っていた。
なお、「攻撃抑止」軍事作戦局による一大侵攻作戦が開始された際、アサド大統領はロシアとイランに支援を求めたが、ことごとく拒否されたという。
アサド大統領は11月28日に、モスクワを秘密裡に訪問し、ロシアに軍事介入を求めたが、中東地域の3人の外交官によるとロシア大統領府は関与を望まず、アサド大統領の要請を無視した。
アサド大統領は当初、UAEへの亡命を希望した。だが、UAEは化学兵器使用の疑いで欧米諸国の制裁対象となっている彼を受け入れることが国際的な反発を招くことを懸念して、これを拒否した。
ロシアは、軍事介入には消極的だったが、アサド大統領の安全に脱出させるための外交努力を主導した。
セルゲイ・ラヴロフ外務大臣はドーハ・フォーラムに際して、シャーム解放機構とつながりがあるトルコ、カタールと協議を行い、脱出を手配した。
アサド大統領の脱出直前の12月7日(土曜日)の夜10時30分、モハンマド・ガーズィー・ジャラーリー首相はアサド大統領と電話で話した。ジャラーリー首相によると、彼が状況の深刻さを伝えると、アサド大統領は「明日になればわかる」と答えたという。しかし、その翌朝
再び電話をかけた際には、アサド大統領からの応答はなかった。
AFP, December 13, 2024、ANHA, December 13, 2024、‘Inab Baladi, December 13, 2024、Reuters, December 13, 2024、SANA, December 13, 2024、Sham FM, December 13, 2024、SOHR, December 13, 2024などをもとに作成。
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