9月23日の政令で任命されたムハンマド・ガーズィー・ジャラーリー内閣の閣僚が人民宮殿でアサド大統領に対して就任宣誓を行った。
宣誓式には、ジャラーリー首相が隣席した。
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就任式の後、アサド大統領はジャラーリー内閣の第1回閣議を召集し、自ら議長を務め、閣僚らに対して今後の活動を支持する演説を行った。
アサド大統領の演説内容は以下の通り:
新内閣がシリアの市民の大きな期待に応えるものであることを願っている。内閣改造や改編はそれ自体が目的ではなく、手段であり、刷新、発展、そして国全体の状況を改善するための新たな機会である。社会全体で感じられるこれらの期待が、個々人に基づいて作られるのは自然なことである。これは当然の状況である。だが、どの新内閣であれ、最初に直面する課題は、個々人に基づいて作られる期待を、国家機関に基づいて作られる期待へと変えることである。それは、政策を通じて、内閣内、内閣のチームのメンバー間、政府機関、国家機関全般、それ以外の機関と人民諸組織などの民間機関や社会のあらゆる階層との効果的な対話を通じて生まれる実りある計画によって、変えられていく。
諸君らは今日、非常に困難な状況下で実務を始めることになるが、すべての公共機関にとって最初の目標とは、市民の負担を軽減することである。しかし、政府自体の負担を軽減せずに、この仕事を進めることができるだろうか。異なるレベルや機関で内閣のチームの活動を円滑化することなく、それは可能だろうか。答えは否だ。私が意図していることは何か、またどのようにすべきか。まず、いかなる内閣であれ、道を切り開くための最初のステップは、期待の水準を現実以上に引き上げないことであり、実現不可能な約束をしないことである。
こうした期待が高まれば、結果としてさらなる失望が生まれる。責任者、そして市民は、内閣のチームや各部門の責任者が在任期間中に約束を果たすために努力しつつもそれらを達成できないまま、何年も過ごすことになる。結果はどうなるか。結果は、責任者に対するさらなる批判と、厳しい批判である。この批判は、しばしば客観的でないと非難され、そう描かれる。なぜなら、これらの約束が果たせない状況があったと考えられるからである。しかし、実際に客観的でないのは、提示されていた約束なのである。
市民に対して、何が可能で何が不可能かを判断するように求めることはできない。市民には基準があり、その基準とは我々が発表する閣議声明、声明、あらゆる形で発表される政策のなかで我々が発表する内容である。市民の基準は、我々が発言し、約束する内容である。
つまり、これらの困難な状況下で政府業務を円滑に進めるための最初の道は、夢物語の内閣ではなく、現実の内閣であることだ。市民も、諸君らも、誰も、蜃気楼など欲してはいない。このことは、閣議声明に反映されることになる。まずは、透明性があり、現実的で、政策や計画を通じて現実に基づいた閣議声明を通じて反映されることになる。要するに、それは理想の声明ではなく可能な声明なのである。
公的な業務において、可能なことと理想を混同することがしばしばある。我々には多くの希望があり、我々のなかの誰しもが、多くの希望と夢を抱いている。だが、我々は、こうした希望を政策や計画のなかに持ち込むことはできない。なぜなら、そこに希望ではなく、事実と現実が存在するだけだからである。
私が語っている現実の「いろは」とは、現行のシステム、特に行政と経済のシステム仕組みがこのまま続くことは不可能であるということだ。これが根本的なテーマである。
今日、世界中の何百もの国を見渡しても、我々のシステムに似たシステムを採用している国は、おそらく片手の指で数える程度しかない。もし訊かれたとしても、どの国がこの方向を採用しているのかを思い浮かべることはできない。これは単純に言えば、我々が他とは異なる方向に進んでいるということである。世界中のほとんど、あるいは大多数の国々が間違った方向に進んでいて、我々だけが正しい方向に進んでいることなどあり得ない。結果がそのことを示している。私は戦争の結果全般について話しているのではなく、何十年にもわたる行政と経済のシステムの結果について話している。
この遅れをもたらした原因は今に始まったものではなく、戦争の前、さらにはそれ以前から存在していた古い問題である。シリア社会全体、そして祖国において、システム自体は良いもので、問題はパフォーマンスや運営、個々人にあるという一般的な認識があった。そのため、我々はシステムを変えるのではなく、人材を入れ替えるだけで期待を寄せてしまっていた。
この変革に対する古くからの拒絶は、一つの結果をもたらした。それは、歴代の内閣や我々のような国の責任者が、変革の政策ではなく、「つぎはぎの政策」を取ってきたということである。もしぼろぼろの布を持ってきて、その場しのぎにそれらをつぎはぎしても、結局のところ完全に摩耗する段階に至るだろう。だから、つぎはぎの政策はもはや役に立たない。改革と変革が遅れるたびに、我々はさらに大きな代償を払うことになり、いずれは改革が不可能なほどに完全崩壊の段階に陥るだろう。それゆえに、時間は我々すべてにとって非常に重要である。
この文脈において、我々は政策、すなわち全体的な政策を明確に説明しなければならない。部門毎の政策、各省の政策も説明しなければならない。また、これらの政策に至る客観的な理由や動機、さらには政策を推進する際の障害や課題も説明する必要がある。時には、これらの政策は、必ずしも我々の信念に基づくものではなく、強いられることもあれば、我々が身を置く状況下で作り出されることもある。我々は、市民の一般的な状況や、さまざまな苦難のなかで生じることが予想されるプラスやマイナスの影響について説明し、多くの問題に対する解決の可能性についても説明する必要がある。その解決策が完全であるか、部分的であるか、あるいは解決不可能な問題が存在するのかどうかについても説明しなければならない。
議論すべきテーマについて言うと、それは我々が現在、過渡期にあるがゆえに多いのだが、これらの政策がもたらすと予想される結果や付加価値についても説明しなければならない。同時に、もしこれらの政策を採用しなかった場合に支払うことになる代償についても説明する必要がある。この問題に関しては、社会や各機関のそれぞれの部門が、自らの決定に対して責任を負うべきである。これは政策に関する問題である。
むろん、政策は重要だが、それに同じだけ重要なのが、閣議や国家機関全般における意思決定の仕組みである。全般的な政策が適切であって、特定の部門においても省の政策が適切だと見える場合もしばしばある。だが、現実に目を向けると、実施のありようが政策にふさわしくないことを目にする。すぐに実施の不備が原因だと考えてしまうが、実際はそうではなく、問題はまったく別のところにある。その原因は、政策間、すなわち部門単位の政策を介在する環にある。ほとんどの問題や課題は、複数の省に同時にかかわるものであるが、ここに部門別の政策の弱点があり、我々はそれに苦しんでいる。ここに、大きな弱点がある。我々は、どのようにして部門別政策を計画し、適切な実施手段を設け、その政策を導くかを考えなければならない。部門別のチームを編成することが必要だ。なぜなら、そこに我々の弱点が潜んでいるからである。
内閣の実務と意思決定に関わるもう一つの側面は、非論理的で複雑に絡み合った行政構造が各機関の論理にそぐわないという点だ。我々には多くの構造が存在している。委員会、高等評議会、その他の評議会などだ。これらのどれが意思決定に関与しているのか、内閣の意思決定にどのように関与しているのかが不明瞭なのである。その一部は、憲法に反する可能性すらある。計画策定に関わる機関もあれば、顧問的な役割を果たすものもある。だが、なぜこうした違いがあるのかが明確にされていない。同様に、各省においても、権限の重複が見られる。また、職務の二重化や、何十年にもわたって施行されてきた法律によって生じているその他の問題も見られる。
この分担や部門別政策に関して、問いが出される。我々がよく耳にするのが、担当者間の調整がないという言葉や意見である。しかし、実際の麻痺の原因は、まさにここ、とくに部門別の政策にある。なぜなら、公的機関における責任者間の関係は、スポーツ・チームや舞台上の演技チームとは異なり、個々の才能や能力に基づく調整やハーモニーに依存するものではないからである。
機関間の調整は政策を通じて行われるべきである。政策が調整されていない場合、チームが調整することは不可能である。前述したさまざまな政策や仕組みから、明確な作業の仕組みを作り出すことも不可能だ。総じて、ここで脆弱な仕組みと、存在しない、あるいは脆弱な部門別政策との間に結びつきが生じる。
内閣の実務や意思決定全般にかかわる第3の点は、概念の歪みである。この点を説明するために、数々の例のなかから一つを挙げたい。ある機関――ここでは経済機関としよう――、この機関のために法律を施行したとしよう。全世界の論理に従うと、経済機関には一つの意味しかない。それは利益を上げるために設立された機関を意味する。損失を出すために設立された経済機関など存在しない。これこそが論理である。だが、我々は法律に則って経済機関として設立しているにもかかわらず、我々の政策によって、その機関が損失を出してしまっている。こうした矛盾はなぜ生じるのか。その機関は、本当に経済機関なのか、それともサービス機関、それともそれ以外の機関に変わってしまったのか。
概念と政策が別々の方向に向かうことは、我々においてはあり得ない。すべての業務において歪みを生じさせるからだ。こうした概念、さらにはその他多くの概念のゆがみがあれば、内閣のチームが安定した政策を構築することはできない。なぜなら、我々は何かを構築しながら、逆のことを実行しようとしているからである。これは正しいやり方ではない。
確かに、シリアの能力は限られている。それは戦争が原因ではない。この祖国にある資源、面積、さまざまな状況により、シリアの能力は常に限られている。もちろん、戦争によってこれらの資源はさらに限られたものとなった。だが、私は常に言っていることがある。それは、我々の問題は、資源の管理にあるということである。管理が悪ければ、すべての部門において管理不全が生じる。そのなかには、物的資源であれ、人的資源であれ、資源の管理も含まれている。
我々には、一部の人々が言うところのシリアへのインフィターフ(門戸開放)に過度な期待を寄せることはできない。政治的性格を有するインフィターフは、シリアの経済を支えることはない。これは政治状況や制裁、または西側の制裁への恐怖が理由ではない。まったくそうではない。戦前の時期を振り返ってみても、シリアにおける外国投資の規模は非常に限られていた。つまり、最良の状況においても、シリア経済は外国投資に依存していなかった。この点に関しては、ある種の幻想が生じてしまっている。 我々は第1に、自分自身に依存する必要がある。第2に、資源を効果的に管理できる政策を策定しなければならない。そうすれば、結果が見えてくるだろう。だから、私は、問題が必ずしも資源の不足ではなく、社会の各部門や市民への資源の配分の悪さにあるとしばしば述べているのである。
ここで私が本質的なテーマだと見ているいくつかの基本的な点を挙げたい。特定の省庁について話しているわけではないが、例えば、労働者基本法は1980年代半ば、約40年前に制定された。この法律の本質は、国家で働くすべての人々を、わずかな違いこそあれ、労働者として扱うことだった。おそらく、この法律は当時は、時代に適していたかもしれないが、今日の世界は大きく変わった。部門ごとに大きく異なった特徴を持つようになり、ほとんどの面で似た点はなくなった。銀行部門は建設部門とは異なり、工業部門とも、サービス部門とも、行政部門とも異なっている。
国家を、個々の部門に特化した複数の法律ではなく、一つの法律で発展させることができるだろうか。こうした一つの法律をもって、我々は、今なお残っている優秀な人材や有能な人材を維持しようとする国の力がないままに、国家の発展について話すことができるだろうか。そのうえで、国家は、この法律によって、失われた人材を取り戻し、優れた人材を引き寄せることができるだろうか。私は、こうした考え方は正しくなく、実現不可能だと考えている。
技術面は非常に重要な側面である。シリアでは1年以上前から、取り組みは始まっている。実際には、数年前から、さまざまな段階、そしてさまざまなペースで、政府業務の自動化、いわゆるデジタル化が進んでいる。これは、透明性の向上、汚職撲滅、市民の利便性向上、そして政府の業務効率の向上において非常に重要である。これが今日、基本的なことだと考えている。しかし、情報技術と情報部門には、政策の枠組みの中で別の問題も考慮しなければならない。それは、この部門を投資部門として捉えることである。我々はこれまで、情報技術を投資部門としてしか考えてこなかった。だが、特に、この部門における原料とは、主に才能ある頭脳であり、それ以外の基本材を必要としない。そのため、この部門に制裁を科すことはできず、私の考えでは、今後の世代にとっての未来そのものである。
シリアでは、地方分権について多く語られてきた。権限の移譲に関する研究や議論も行われてきた。だが、私はこの概念、つまり権限移譲自体が誤った概念だと考えている。なぜなら、それは部分的で表面的だからである。権限移譲は、地方分権の最終段階に過ぎない。
地方分権は、地方自治体や各県の部局に単に権限を分配することから始まるものではない。まずは、これらの部局や地方行政機関を発展させることから始めなければならない。なぜなら、我々が、中央から遠い周縁やそれ以外の地域に、手続きや政策に問題がある状態で権限を委譲すれば、この問題を他の地域にも拡散させることになる。そして、中央に存在しているがゆえに、中央で対処することが容易だった問題が、分配され分散されることで、対処が困難になってしまう。問題のなかった手続きを管理がなされていない場所に移すことで、我々はその場所にも問題を創り出してしまう。それゆえに、地方分権の概念はまず、各機関の発展へと改め、そのうえで権限移譲という発想に進まなければならない。
行政改革も、特定の省の政策ではなく、国家の政策として、過去7年間において、我々は一定のステップを踏んできた。だが、この問題が新しく、我々の経験が限られているため、当然ながら、欠陥に溢れている。どのようなステップかはともかく、我々は一段一段移行してきた。その際、私は、あらゆる部門におけるいかなる業務においても、段階から段階へと移行するものであると考えてきた。これは、欠陥は往々にして多く存在し、おそらくは長所よりも多いということを意味している。なぜなら、考えと実施が一致しないことが多いからである。
それゆえに、我々は、このプロジェクトを根本から見直さなければならない。7年を経て、どこにいて、どこに到達したのか、どのような障害があったのか、どのような誤りがあったのか、どのような欠点があったのか、どの場所を変更すべきか。柔軟性を与えるプロジェクトになるべきところを、しばしば制約を生み、一部地域では官僚的な手続きに変わってしまった行政プロジェクトの改編が必要な部分はどこか。これは、計画にはないが、実施に際して行われることである。問題はどこにあるのか。我々はプロジェクトを政府レベルで見直し、どこで改善と修正が可能かの提案と調査を行うことになる。
運命と状況ゆえに、諸君らは今日、レバノンの兄弟たちに対するシオニストの激しい攻撃の中で実務を始めることになった。言葉では表現し難い、再現のない犯罪である。だが、実務開始から最初の数時間が経ったが、今この時間、そしてこれからの数日間、この問題は、そのほかのいかなる問題よりも優先されるべき基本的な問題としなければならない。我々は、いかにして、全分野にわたって、全力で、例外なく、そして躊躇せず、レバノンの兄弟たちに寄り添うことができるのか、それが基本的な問題である。
SANA(9月24日付)が伝えた。
AFP, September 24, 2024、ANHA, September 24, 2024、‘Inab Baladi, September 24, 2024、Reuters, September 24, 2024、SANA, September 24, 2024、SOHR, September 24, 2024などをもとに作成。
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