サーフ・ワガーによると、イスラーム国は『ナブア』第554号の社説で、シリアの人民議会の発足について、「立法はアッラーだけに属する純粋な権利であり、他者に委ねることは許されない」と批判した。
社説における批判内容は以下の通り:
権力を握った後も統治に関するハーキミーヤの理念を守り、正しい宗教を担い続けた者はごく少数であった。彼らは礼拝においてアッラーのみを唯一としたように、統治権についてもアッラーのみを唯一とした。それは至高なる御方の御言葉「裁きはただアッラーにのみ属する。彼は、自ら以外を崇拝してはならないと命じられた。それこそが正しい宗教である。しかし大多数の人々は知らない」に従ったからである。読者が敵であれ味方であれ、困難な時も平穏な時もアッラー以外の裁きを拒み、そのために戦い、命を落とした人々を思い起こしてほしい。彼らはシャリーアとともに生き、シャリーアのもとで死に、そしてその上で復活するのである。
そして今日、背教したシリア政権とその支持者たちは、人民議会の定足数が満たされ、背教政権崩壊後の新しいシリア最初の議会が発足したことを祝っている。以前の政権にも同じ議会、同じ統治、同じ人民が存在していたにもかかわらずである。この議会の全議員がそろったことで、革命勝利後初の立法機関が誕生したという。それは本質的には、統治と立法においてアッラーに対抗するための機関である。まるでこの革命はシャリーアとその統治理念に対する革命であったかのようである。彼らはシャリーアを停止し、敵視し、再び復活しないよう米国と同盟を結んだ一方で、議会を議会で置き換えただけで革命以前の時代へと国を戻したのである。
その発表直後から、シリアの暴君を支持する革命派や、道を踏み外したジハード主義者たちは、自らの露骨な多神崇拝とアッラー以外への裁きを正当化するため、さまざまな言い訳を並べ始めた。彼らは無意識のうちにムスリム同胞団政権の役割を演じ始め、その主張を一語一句繰り返すようになった。すなわち、多神崇拝を合法化し、暴君をイスラーム化し、民主主義をシューラーと呼び換えるのである。このようなムスリム同胞団由来の数々の主張や疑念は、すでに徹底的に論破され、時代遅れとなっていた。それにもかかわらず、今日では道を踏み外した者たちが再びそれを持ち出し、ほこりを払い落として純粋な唯一神信仰に敵対している。古くから「ほとんどの運動は結局ムスリム同胞団へと帰着する」と言われてきたが、その無知と破滅の道から免れたのは、ムスリム同胞団、裏切ったジハード主義者、暴君たちが一致してハワーリジュ派と呼んだ者たちだけであった。よく考えるがよい。
旧シリア人民議会であれ、新しい議会であれ、シリア議会であれ、立法評議会であれ、シューラー評議会であれ、何と呼ぼうとも、それは不信仰の議会である。そこでは議員たちがアッラーに代わる主人として扱われ、人々のために法律を制定し、それに従うよう命じ、違反を禁じ、その法律や無知の憲法に基づいて賞罰を与える。その正当性はコーランと預言者のスンナではなく、多数決に由来している。
このような議会とその立法に裁きを委ね、それを受け入れることは、共同体から離脱させる重大な不信仰である。このことは、彼ら自身も我々と同様によく知っている数多くの宗教的根拠によって裏付けられている。彼らの集会や理論書にも、かつてこの教えが欠けたことはなかった。しかし重要なのは実践である。アッラーは「あなたの主にかけて誓う。彼らは、自分たちの間で争いが起きた際にあなたを裁き手とし、その裁きを心から受け入れ完全に服従しない限り、真の信仰者とはならない」と述べられた。また「彼らにはアッラーの許しもなく宗教を立法した共同者がいるのか」とも、「彼らは自分が信仰していると主張しながら、暴君の裁きを求める」とも述べられている。
この問題について、イブン・タイミーヤはこう述べている。
「アッラーの被造物の間を裁く者は、アッラーとその使徒の裁き以外で裁いてはならない。それ以外を求める者には、「彼らは無知の時代の裁きを望むのか。確信する民にとってアッラーより優れた裁きをする者があろうか」という御言葉が当てはまる。また、「彼らはあなたを裁き手としなければ信仰者ではない」との御言葉も同様である。ゆえにムスリムは、あらゆる争いにおいてアッラーとその使徒を裁き手としなければならない」(『ファターワー』)。
またイブン・カスィールも著名な法的見解の中で次のように述べている。「アッラーは、あらゆる善を含み、あらゆる悪を禁じる完全なアッラーの裁きを離れ、人間がシャリーアに根拠なく作り出した意見や欲望や制度へと向かう者を非難される。無知時代の人々が、自らの欲望に基づく規範で裁いたようなものである。彼らはそれをアッラーの書と預言者のスンナより優先した。そのようなことを行う者は不信仰者であり、アッラーとその使徒の裁きへ立ち返るまで戦われるべきである。少しのことでも多くのことでも、それ以外を裁きとしてはならない」。
さらに、アブー・フダイファ・アンサーリー師の忠告を改めて繰り返す。
「助言としてシャームのムスリムたちに呼びかける。あなた方の犠牲はあまりにも大きかった。それを国家主義という蜃気楼や民主主義という風の中で無駄にしてはならない。その代価として受け入れるべきものは、神のシャリーアによる統治だけである。あなた方の血を、新たな暴君を作り出す国際的な橋として利用させてはならない。そうなれば、アサド時代が再来し、損失はさらに大きくなり、後悔はさらに長く続くだろう。「裁きはただアッラーのみに属する。かれは、かれ以外を崇拝してはならないと命じられた。それこそが正しい宗教である」。あなた方が礼拝を捧げる御方は、シリア憲法ではなく御自身に裁きを委ねるよう命じている。ゆえに使徒たちの呼びかけに従い、サーマリーの子牛に従ってはならない。急げ、逃れよ。アッラーよ、私は伝えました。証人となってください」。
つまり、唯一神信仰とはアッラーが僕に求める権利であり、それは二つの柱によってのみ成り立つ。一つは礼拝においてアッラーのみを唯一とすること、もう一つは統治権においてもアッラーのみを唯一とすることである。「裁きはただアッラーのみに属する。かれは、かれ以外を崇拝してはならないと命じられた。」ゆえに、アッラーを礼拝される神として信じる者は、同時に統治者としても信じなければならない。「それこそが正しい宗教である。」それ以外には、微塵の唯一神信仰も存在しない。「信じたい者は信じ、信じたくない者は信じなくてもよい」。
最後に、ジハードの場においては、シャームの人々は統治と立法に関するアッラーの権利を守るため立ち上がるべきである。アサドの後継者たちは、その権利をアッラーから人間へ、しかも最も卑しく堕落した者たちへと移している。アッラーの統治のために戦い、その旗の下で死ね。シャリーアの天蓋の下で死ぬことは、多神崇拝の議会や議会制民主主義の天蓋の下で死ぬこととは決して同じではない。まったく異なるのである。アッラーは御自身の命令を必ず成就される。しかし、多くの人々はそれを知らない。
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