アラビーヤ・チャンネルのインタビュー番組が「虎」(ニムル)の愛称でしられた旧シリア軍第25特殊任務師団の司令官ハサン准将の役割を検証するインタビュー番組を放映

アラビーヤ・チャンネルは、「虎」(ニムル)の愛称でしられた旧シリア軍第25特殊任務師団の司令官だったスハイル・ハサン准将の役割を検証するインタビュー番組を放映した。

インタビューに応じたのは、アサド前政権寄りと目されてきたジャーナリストのシャーディー・ハルワ氏。

インタビューでのフルワ氏の主な発言は以下の通り:

ハサン准将と知り合ったのは、彼がまだ大佐だった頃だ。その後准将に昇進した。彼は空軍情報部の士官で、革命が始まる前は空軍情報部で特殊任務を遂行していた。その後、ハマー市での抗議活動の監視や計画に関わるようになった…。
彼はアラウィー派で、(ラタキア県)ジャブラ市郊外のマアナーナ村出身だ。
彼と出会ったのはアレッポ東部郊外の丘だった。その時、彼はすでに作戦を開始していた。
彼のことを知らなかったし、ハサンも当時はテレビには登場していなかった。彼の写真もなかった「黄色い風」(ハワー・サフラー)、「虎」(ニムル)などと呼ばれていた。私はその丘を訪れ、兵士2人を伴っていた階級章を付けていない士官(ハサン大佐)を見かけ、こう尋ねた。「ハサン大佐にはどうやって会えますか?」
彼は言った「何の用だ? ハサン大佐に何の用だ?」
私は答えた。「私はシリア国営テレビの記者で取材をしたいのだ」…。
当時、いわゆる「抵抗枢軸」は…イスラーム国と戦っていた旧シリア軍の功績は、予備部隊によるものだと盛んに伝えていた。
私はハサンに…シリア国営テレビが現場にいるべきで、そうでなければ功績が他に帰されてしまう、と説明した。
彼は自分がハサンだと名乗った。彼は幾度となく私を呼び、アレッポ中央刑務所にいたる街道で一緒に仕事を始めた。当時そこはヌスラ戦線に包囲されていた。
彼は寡黙な人間で、特に初対面の相手に対しては、話すよりも聞くタイプだった。
しかし、恐ろしい、とても恐ろしい人物だった。命令の実行をためらえば、結果は悲惨なものになる、そう感じさせる存在だった。
メディアから距離を置いていた(ことが恐怖を感じさせた)。彼の神秘性。そして苛烈さ。残忍で血なまぐさい作戦だ。
シリア戦争でもっとも激しかった戦闘のいくつかを指揮したのが「虎」ことハサンだった。
焦土作戦、地域の包囲、複数の戦線からの突入。重要なのは、ハサンは旧シリア軍で唯一、上官に許可を得ずに航空部隊を動かせた士官だったということだ。
砲兵、ロケット砲、ヘリコプターが即座に投入され、エアロL-39戦闘機も出撃し、さらにはロシア軍との調整まで行い、ロシア空軍も彼の命令で出撃していた。
これは、他のどの士官、師団長、さらには参謀総長でさえ持たない特権だった。彼らでさえ航空隊を自由に動かすことはできなかった。
(彼との関係は)長くはなく、2018年頃まで続いた。最後はダイル・ザウルでの戦闘だった。
彼はあらゆるメディアの立ち入りを拒み…、シリア国営テレビ以外には、いかなる報道機関にも(取材)許可を出さなかった。
「なぜマヤーディーン、マナール、イラン系チャンネルの立ち入りを禁じるのか」という上層部の質問に対して、彼はこう説明した「私は彼らを禁じているのではない。まずは自国のテレビが取材する。その後に彼らが入るのだ。戦闘は機微なものだ」。
空軍情報部のジャミール・ハサン部長に対してもそうだった。実際、彼に影響力があったのは、ジャミール・ハサン、アリー・マムルークくらいだった。
(前政権は、スンナ派であるフルワ記者の存在を利用したことは)後になってから、2013年頃にあった。
メディアに限らず、ほぼすべての部門で、前政権はスンナ派を含むさまざまな宗派の人材を前面に出す方針をとるようになった。すべての宗派がバッシャール・アサドを支持しているというイメージを示すためだ。
この噂(ハサン准将の容姿が大きく変わったとの噂)は広く流布された。「彼は戦闘で死亡し、別人にすり替えられた」とまで言われた。だが、彼は同一人物だ。彼の私生活について少し語ることにしよう。
彼は結婚し、離婚し、子どもは1人だけだ。家族と姿を現すことはなかった。常に兵士たちと兵舎で寝泊まりしていた。
独特の性格で、父母にさえ会いたがらず、母親の葬儀にも出席しなかったほどだ。
長期間、癌を患っていたが、治療を拒み、鎮痛剤だけに頼っていた。
最終的にアサドから手術を受けるよう命じられ、肺のかなりの部分を切除した。肺癌だった。
戦場に復帰するため、大量のコルチゾンを摂取せざるを得なかった。カマール・イスマーイールという医師がいたが、何度も彼の暗殺を試み、逮捕され司法に送致された。この医師がその後どうなったかは知らない。
彼は注射を打ちすぎて、脚に注射する場所がなくなるほどだった。容姿も変わり、顎ひげをたくわえ、染めるようにもなった。
彼には直属の部隊があった。一部は正式な軍部隊だったが、大半は武装組織で、主にアラウィー派が多いハマー市郊外、ラタキア市郊外、タルトゥース市郊外、沿岸地域から集められていた。
また、2013年初めごろからは、スンナ派も加入していった。彼らは契約で給料を受け取っており、当時はブスターン事前協会が資金を提供していた。
彼への資金提供によって、多くの越権行為や不満の声が上がったことから、アサドが介入し、体制を整備した。彼は北部地区の空軍情報部支部長に任命され、1ヵ月後に准将へ昇進した。
ここで強調すべきは、ハサンは常に軍上層部から妬まれていると感じていたことだ。ファハド・ジャースィム・フライジュ国防大臣や参謀総長、各師団長らが「自分を妬んでいる」と不満を口にしていた。
彼の副官だったサーリフ・アブドゥッラー准将が先に准将へ昇進し、彼自身はその2ヵ月後に昇進した。
(ハサン准将が絶大な権限と能力を持つに至った理由は)正直に言えば、ロシアにある。
ロシアがシリアでの軍事作戦に参入した当初から、彼らはハサンの戦闘能力や苛烈さについて多くの情報を持っていた。フマイミーム航空空軍基地で会合が開かれるようになり、彼はあらゆる支援を受けることになった。私の知る限り、彼はロシア国籍も与えられた。
ロシアが資金面でも彼を支援した。彼らは彼を、容赦なく、敗北を知らず、振り返らない苛烈な軍人と見ていた。
彼のインタビューはすべて私を通して行われた。
彼は、ロシアに対しては非常に強い忠誠心を抱いていた。だが、イランの存在は嫌っており、会合を避け、同じ作戦区域で共に行動することを望まなかった。
彼はイランを「マスラハジーイーン」(利害主義者)、つまり自分たちの利益だけを追求する者だと言っていた。また宗派的な色合いが強いとも。
アレッポ市南部郊外でイランが多くの住民をシーア派に改宗させていたのを我々は実際に目にしていた。
彼は焦土作戦を採用していた。私の見立てでは、彼には二つの戦術がありました。一つは焦土作戦、もう一つは包囲し、その後に攻撃を開始するという戦術だ。
樽爆弾は発明された兵器の一種だ。しかし、ロシア軍機から投下されたものの中には、それ以上の破壊力を持つものもあった。中には半トン以上、時には1トンに達するものもあった
私はグータにいなかったので、(化学兵器攻撃についての)情報は持っていいないただ、私が目撃した戦闘において、化学兵器は見ていない。だが、樽状の爆発物は使用された。重量が1トンに達する爆弾もあった。私が見たのは500キロから1000キロ、つまり半トンから1トンの爆弾や樽爆弾だ。
その破壊半径は非常に大きかった。我々はそれを放送していた。
彼は携帯電話を持っていなかった。連絡は秘書や護衛、彼の担当記者を通じて行われた。また、情報省から支給された無線通信機があり、彼とは常に直通でつながっていた。
そう言った面(盗聴対策)もあるが、戦闘地域では携帯電波が届かない場合もあった。
一部の映像では、私がヘリコプターの中にいる姿が映り、「シャーディー・ハルワが樽爆弾投下に同行していた」と批判された。SNS上では多くの写真や動画が拡散され、コメントが寄せられた。
彼は私のために専用ヘリを送るようになった。ナイラブ航空基地からタドムル、ヒム、ハマーに私を運び、取材させた。
例えば、アレッポからハマーへ陸路で向かえば2時間半かかる。しかし彼は即座に取材を望み、電話で「ナイラブ基地へ来い、ヘリが待っている」と言ってきた。
私はダマスカスに連絡し、SNG中継車をハマーへ向かわせた。私が到着する頃には中継車も現地に到着し、武装拠点や司令部の制圧といった戦果を中継していた。
彼は、アサドに「この作戦を行っているのは自分だ」と示したかったのだ。
私が取材に現れれば、「その地域でハサンが活動している」という印になった。シリア国営テレビ、特に私がいる場所は、彼の作戦地域であると認識された。
我々は彼の発言を編集でかなり整えた。彼は哲学的な言い回しを多用し、例えばこう語ったことがある。「太陽を見つめると、そこに我が指導者であり、最初の闘士であるアサドの姿が浮かぶ」と。
彼には野心があった。それがアサドを不安にさせたのだ。ある映像で我々が「血と魂をシリアに捧げる」と叫ぶと、彼は私の手を下げさせ、「シリアとはアサドそのものだ…。血と魂をあなたに捧げる、バッシャールよ」と言った。
その映像は広く拡散された。彼は公の場で私を叱責したが、2時間後には電話をかけてきて「一緒に昼食をとろう」と言ってきた。
やがて彼は、アサドが自分を排除しようとしていると確信するようになった。
彼はルーナー(・シブル大統領府特別顧問)を嫌っていた。
ルーナーの指示で、「血と魂をあなたに捧げる、バッシャール」というスローガンを戦場で使うことが禁じられた。軍は「シリアのために戦っている」という姿を示す必要があったからだ。

ハサンが(樽爆弾を)考案した。
ただし、説明しておきたい。樽爆弾とは、いわば大型の金属タンクにTNTを詰め込んだもので、防衛産業工場で改良されたものだ。
ただし、通常の国防省部門ではなく、防衛産業の専門工場が製造した。
彼女(ルーナー・シブル)も彼(ハサン准将)を嫌っていた。
だが、ルーナーはハサンについての多くの映像公開にも同意していた。
私は記者だ。取材素材を制作し、ダマスカスのテレビ局に送るだけだ。放映するかどうかを決めるのは検閲を経た上での局側だ。私は最終決定者ではない。だが、ハサンをめぐる論争を作り出すため、ルーナーがあえて一部映像の放送を許可していたという見方もある。
私はクワイリース航空基地でハサンがアサドに電話する場面に居合わせた。包囲解除を祝う電話だった。彼はこう言った。「大統領閣下、あなたの机にある辞表を受け取らせてください。そうすれば、私はもっと自由にあなたのために戦えます」。
彼は軍の階級制度を障害だと感じており、民間人として戦いたいと言っていた。
彼はフライジュ国防大臣との通話で、こう言って電話を切ったこともあった。「私は最高司令官(アサド大統領のこと)の命令でここにいる。最高司令官の命令なく、いかなる軍事線も変更しない」。
こう言って、即座に電話を切ったのだ。准将が国防大臣に対してだ。
(アサド大統領に解任を求めたのは)完全な忠誠を示すためだ。「もっとあなたのために戦いたい。だが、軍の序列が障害だ」と伝えたかったのだ。
多くの人がそう(ハサン准将がアサド大統領の後継者になりたがっていると)言った。しかし、軍、経済界、メディアなどで権力を握り、影響力を持った者は、最終的に排除された。競争相手になり得るからだ。
ロシアの支援は彼の地位を高めたが、同時にそれがアサド政権内での警戒心を強めた可能性もあるす。
それ(ハサン准将がアサド大統領の座を狙っていたとの主張)は噂だ。しかし権力を持ちすぎた人物は、最終的に整理される運命だった。
ある時、私はルーナーの事務所にいた。その時、彼女は冗談めかしてこう言った。「彼が「閣下の代わりになる」って言ってるらしいわよ。あの笑い方でだ。
近しい人たちは、その意味を理解していた。
私とルーナーの関係についても話せることがある。彼女は私を通じてメッセージを送ることもあった。私がイマード・ハミース首相の電話を切った件についても、流出音声の中で彼女はこう言っている。「我々が大臣を据えたのよ」。
それ(彼女が大臣を任命し、解任する立場にまで達していたということ)は事実で、皆が知っている。
(ハサン准将の資金源は)ロシアだ。加えて、彼の友人である資本家や実業家たちが資金を提供していた。彼はその資金で兵士に給料を払っていた。
(ハサン准将が運転していた高級車などは)すべて贈り物だ。実業家からの贈り物だ…。ハマーにガレージがあり、私の知る限り12〜14台の車があった。
彼の家については、新政府の人々も知っているだろう。ジャブラ市郊外に父のための邸宅を建てた。彼が何をしていたかは知らないが、彼が求めるものはすべて叶えられていた。電話一本で「1000万欲しい」と言えば届き、「車が欲しい」と言えば届く。
彼は愚かではない。記者の前で残酷さを見せるようなことはしなかった。我々は現場に入り撮影しますが、その前に彼の部下がすべてを記録していた。
アサドは文民だが、弟のマーヒル・アサドは第4師団司令官だ。ハサンとマーヒルの関係は良くなかった。彼は第4師団に強い不信感を持っていた。
(ハサン准将とマーヒルの部隊との間では)拉致事件などがあった。
私の知る限り、2018年までは(ハサンはマーヒルとは)会ったことはなかった。
その後、彼は「は自分を排除しようとしている」と気づくようになった。彼は何度もそう言っていた。
(ルーナー・シブリー、カーティルジー・グループの面々は)最終的に粛清された、ハサンは何度もそう言っていた。
また、彼は何度もこう言っていた。「自分は暗殺されると分かっている」と。ハサンは、ダイル・ザウルでの大規模な戦闘が終わった後そう語っていた。
国営テレビは、ハサンの映像もインタビューも一切流さなくなった。私自身も出演禁止の命令が来た。
私は「出演はしない」と伝えるとともに、「ただし彼(ハサン准将)にはその旨を伝えてほしい。彼が呼べば行かないわけにはいかないからだ」とも言った。だが、彼はメディアから完全に締め出されていたのだ。
特にダイル・ザウルではそうだった。私はダイル・ザウル作戦が始まる前から軍事報道を辞めたいと申し出ていた。
2020年にはテレビ局を完全に辞め、4年間の無給休暇を取った。
(ハサン准将とロシアの関係をアサド前大統領は)何も知らなかった。
アサドがプーチンと会談するためにフマイミーム航空基地を訪れた時も、ハサンがその会議にいることを知らなかった。ハサンも、会議に呼ばれたとき、アサドが来ることを知らなかった。もし知っていれば、出席を避けただろう。問題を起こしたくなかったからだ。
しかしアサドは巧妙だった。プーチンの前でハサンを称賛した。「家族を捨てて戦っている人物だ」と。
ところが、その3ヵ月後、彼の権限を剥奪し、部隊を取り上げた。新しい司令官には、(副官だった)サーリフ・アブドゥッラー准将を任命した。ハサンは特殊部隊司令部に異動となり、簡単な訓練を担当するだけの立場になった。
(マヤーディーン市でのハサン准将とロシア軍の会談について)、出席していたロシア軍士官は(ワグネルではなく)正規軍だった。ロシア人記者もいた。目的は、シリアの公式メディアから締め出されたハサンに補償を与えるためだった。彼はロシアを強く称賛した。
(アサド前大統領がイドリブ郊外を訪問した時の)砲撃や発砲は、カメラのための演出だ。攻撃された場所には何もなかった可能性もある。「民間人を殺した」と言われないために。
そしてそれを構成・演出していたのはルーナーだった。
私は彼(ハサン)との関係を完全に断っていた。だが、その後、反体制派がアレッポに入り、侵略抑止作戦が始まった頃の話だ。私は家族とともにアレッポを離れ、ダマスカスに向かった。それは金曜日のことだった。木曜の夜に航空券を予約した。
そして木曜の正午頃、ハサンの事務局長が電話をかけてきました。1回目、2回目、3回目。私は出なかった。彼が私をハマーに呼び寄せたいのは分かっていた。
しかし、私はもう決断していた。アレッポを出た後、アッラーに誓って、もうシリアに1分たりとも残らない、と決めていた。
ハサンは、政権崩壊の3日前の木曜日にハマーへ来いと連絡してきた。私は応じないと、彼の側近がメッセージを送ってきた。「司令官(ハサン准将)がお前を呼んでいる。電話に出ろ。司令官が呼んでいる。今すぐ飛べ」と。
もちろん(ハサン准将はハマーで戦っていた)。ハマーは彼にとって象徴的な場所だった。ハーフィズ・アサドの時代からだ。
だが、彼はハマー陥落後、すぐにフマイミーム航空基地に移動した。そう、関係者から聞いた。
そして、ロシアが彼をモスクワへ連れて行った。彼だけではなく、多くの士官たちもだ。
メディアではシリアの諜報関の高官はレバノンにいると言われている、それは違う。ロシアかイランだ。私を信じて欲しい。
彼(ハサン准将)だけでなく、多くの士官がその家族とともに住宅複合施設のような場所にいる。
(ハサン准将が財産をロシアに持ち出したかどうかは)分からない。ただし、彼はロシアに何度も行っていた。アサドが知っていたかどうかは知らないが。
彼が「赤いパスポート」、つまりロシア国籍を持っていることは確かだ。
我々は(そしてハサン准将も)皆、実行者だった。それが彼の職業だった。殺すこと、軍事行動、それが彼の専門だった。誰もがそれぞれの専門を持っていた。私もそうだ。
彼はかつて、アサドの側近たちが自分に対抗していると疑っていた。
私は責任を逃れはしない。彼(ハサン准将)を擁護しているわけでもない。私は裁判官でも弁護士でもない。
ただ事実として、彼は命令を実行していた。軍司令官として、アサドへの忠誠を示すために。彼の野心は「私は虎だ」という言葉に現れていた。動画でも何度もそう言っていた。彼は人を引きずり出し、連れて来い、と命じていた。
(ハサン准将がなぜ虎という愛称を選んだのかは)わからない。ただ、アサド(ライオン)、ニムル(虎)、シブル(幼獣)。まるで動物園のような体制だった。
彼は複数の人格を持つ曖昧な存在だったと思う。焦土政策を採用し、作戦が失敗すれば、地域を完全に消し去る。容赦なかった。

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