アサド大統領は8月21日に召集された第4期人民議会の第1回特別会で演説を行った。
演説の全訳は以下の通り。
寛大なる人民議会議員の諸君ら、立法府の第4期が始まるにあたって、諸君らが有権者の信頼を得て、彼らに奉仕する名誉を得たことを祝福する。まず、一般の信頼は、たゆまぬ努力、継続的なコミュニケーション、そして成果によって補われなければ、すぐに消耗するものであることを忘れてはならない。諸君らが国家機関発展に向けた活動のさなかにあって、任務を始めるにあたり、その影響は、国家機関全体が包括的に発展しなければ、具体化しないだろう。国家機関の間には密接な関係があるがゆえに、人民議会はそのすべての機関の業績に反映されるもっとも最重要機関である。したがって、その制度と作業メカニズムの改善は、他のすべての優先事項の基礎となる最優先課題である。
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改革は、組織の基本的基盤を形成する一般的な概念の是正から始まる。それらが国民全体のレベルで理解されなければ、「議会は何をしたのか?」、「なぜ議会は何もしなかったのか?」といった古くて新しい疑問は、答えのないまま残り続けるだろう。議員に対する免責特権は、憲法および法律上の職務を妨げるいかなる影響からも彼らを守るためのものであり、特権や例外ではない。それは、免責特権を持つ者が法律や規則の上に立つことを決して意味してはおらず、むしろ議員が率先して法律を適用し、それに従うことを意味する。彼らは法律の制定とその適正な適用に責任を担う者である。議会の監視機能はその核心であり、そのためには参照すべき基準が必要である。ここで言う基準とは、憲法や人民議会法といった立法上の基準ではなく、議会と他の機関、特に行政府との関係を規定する手続き上の基準のことである。なかでも、これらの機関が提案し、人民議会が承認する政策がもっとも重要な基準となる。
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監視は、一時的なものや気まぐれ、個人的な意見ではなく、業務遂行と成果を測るための体系的かつ恒久的な手段である。多くの機関が、それを規定する法規や規則に従って運営されており、その業務を評価する際には欠陥などないように見える。しかし、良好な業務遂行が必ずしも成果を意味するわけではない。つまり、業務遂行と成果の間には違いがある。議会としての業務遂行の基準は何か? それは法律と規則である。もし何らかの欠陥があれば、議会は監視のメカニズムを通じて介入する。しかし、成果が上がっていない場合は、その機関に対してどのような政策が採用されているのかを問う必要がある。ヴィジョンがあり、ヴィジョンから政策が生まれ、政策から計画が生まれ、到達すべき目標が設定されるのだ。
これらの政策は、行政府に対して、我々議会としての監視の基準である。つまり、監視は機関に対して行われ、責任者に対しては怠慢があった場合に処罰が行われる。このように、監視と処罰が結びついているからといって、監視が適切に行われなければ、処罰も適切に行われ得るとは限らない。もちろん、この点は重要であるが、これらすべてを定義する細則については後ほど話すことにする。監視と処罰はいずれも、権限である前に責任であり、責任を伴わない権限は破滅をもたらし、知識を伴わない責任は混乱を引き起こす。諸君らは、その原因、背景、結果、影響、そしてこれらをどう活かすかを理解したうえで、政策、戦略、そして計画を議論する責任を負っている。諸君らはまた、自らの意見を持ち、そのうえでヴィジョンを議論する責任を負っている。これには、組織を犠牲とした個人行動、全体と祖国を犠牲とした個人行動、そして明確に理由づけされた分析的な基礎に根差した科学的行動を犠牲にしたその場しのぎの行動を防ぐための体系的で明確な作業メカニズムを採用することが求められる。政策や戦略を議論し、承認することなく、手続きや計画を議論することは許されない。それらがなければ、手続きや計画は、統一性や一貫性を欠いた無秩序な状態となり、その是非はともかくとして、有益ではなく、有害にさえなり得る。誰かが良い考え、正しい考えをもたらすとき、我々は熱心になり、それを支持し、奨励する。だが、公式な立場においては、我々はそうした考えを承認し、同意する。しかし、時間が経つにつれて、その良い考えや正しい考えが、期待した成果を生まず、逆に悪い結果をもたらすことがある。なぜか? それは、我々が基本的で自明の質問をしなかったからである。「この手続きの背後にある、またはそれを支える政策は何か?」という質問をだ。
何百もの、あるいは何千もの施策があるが、それらの施策を結びつけるものは何か? それらの間で矛盾が生じるのを防ぐものは何か? これらの施策の間で一貫性を持たせるものは何か? それは政策である。つまり、どれほど正しい施策を個別に実施しても、それは最善の状況においてさえ効果がないのだ。それゆえに、計画や施策からではなく、常に政策から始めなければならない。政策とヴィジョンこそが、我々が行政府との関係においてもっとも重視すべきものである。そして、重要な点ではあるが、行政府が提案する政策を、必要な実行手段が揃っているかを確認せずに承認することは許されない。なぜなら、結果を待つ時間が無駄になるからだ。つまり、事前に失敗を防ぎ、その後の時間を無駄にせず、責任者が果たせない約束をするのを未然に防ぐことができる。それにより、一般レベルでの失望を防ぐことができる。また、状況や本質を判断するなかで、誰もが安心する言葉、希望に満ちた言葉、バラ色の言葉を聞きたいと考えるだろうが、時間の経過のなかでそうした言葉が実現しないこともある。さらに、責任者は人民議会や市民などのさまざまな当事者を満足させたいと考える傾向があり、同時に批判を受けたくないという気持ちもあるだろう。このような場合、人民議会の役割は、実行手段について問うことである。人民議会が法律の制定や政策の承認、プロジェクトの承認などを行う際に、実行手段について問うことなく、行政府がそれを実行できなければ、人民議会は行政府とともにその責任を負うことになる。なぜなら、提案と承認は一つの責任の表と裏であるからである。
つまり、まずは政府の全体的な政策や一般政策の議論から始め、それに基づいて各省庁の政策を検討し、現状とその原因について正確に診断したうえで議論を進めようではないか。その診断の基礎となるのは、明確さと透明性である。多くの人が今日、生活状況について、また現状からどのように脱却するか、現在と将来について多くの疑問を抱えている。こうした状況下では、安心感を与えたり士気を高めたりすることを重視することよりも、現実を美化せずに、ありのままに説明し、分析し、可能な解決策を提示することが優先されるべきである。今日、我々にとってもっとも危険なのは、現実を否定して前に進もうとする政策を採用することや、課題に向き合わず問題を解決しようとしないことである。我々の現状は、諸君らにとって周知の戦争の結果に加えて、さまざまな分野での数十年にわたる一般政策が蓄積してもたらされたものだ。それゆえに、この現状を変えようとするならば、それを過去の段階と結びつけて考えなければならないのは当然である。もちろん、とくに悪意を持った人々であれば、私が過去の段階、またはそれ以前の段階から逃れ、現在我々が直面しているすべての問題の責任を過去に押し付けたと言うかもしれない。だが、それは事実ではない。なぜなら、現在は過去の延長であり、過去の結果だからだ。人生は連続した流れであり、過去から切り離して現在を語ることも、未来と無関係に語ることもできない。
同時に、国のレベル、そして民族のレベルでの大きな国民的危機は、突然生じるわけではない。突然表面化したとしても、それはさまざまな要因の積み重ねによるものである。それゆえ、過去についても現在と同様に議論する必要がある。そうすることで、我々は過去においてどこにいたのか、そしてなぜ今の状況にいたったのかを理解できる。過去と現在を結びつけることは、客観的な要因と非客観的な要因を区別するのに資する。まず客観的な要因とは、我々が直接的に責任を負えないもの、国の力を超えたもの、すなわち戦争、包囲、テロ、数十年、数世代にわたる過去の政策、そして現在、富める国であれ、貧しい国であれ、どの国も逃れることのできない世界的なインフレや物価高騰などである。一方、非客観的な要因とは、行政府の責任者による怠慢に関連するものである。
原因が異なる以上、それらを現在行っているように一律に扱うことはできない。それぞれ原因にはそれぞれに応じた対処法が必要である。まず、原因を正確に診断し、これらの原因を区別することが必要である。我々の多くが、戦争、包囲、テロが現状の原因であると考えている。それは事実ではあるが、それだけでは不十分である。戦争が問題であると断じることはできないし、同様に、すべてを戦争、テロ、包囲という言葉で片付けることができない。さらにはすべてを責任者の過ちだとして片付けることもできない。どちらも正しいとは言えないのである。深刻な経済危機は、表には見えない免疫力の低下の現れであり、戦争がそれを顕在化させ、その深刻さを増幅させるのである。免疫力の低下の原因を探るためには、我々が過去60年間にわたって採用してきた経済政策の根本を検討しなければならない。むろん、これらの政策の中には60年以上、あるいは70年、1950年代頃から続いているものもある。これらの政策が我々の社会に適しているのだろうか? 我々の現状に合っているのだろうか? いつまで適していたのか、いつから適さなくなったのか? 適していたとして、代償を伴わなかったのか? 副作用はなかったのか? 当時の政策のままで副作用を回避することはできたのか? などなど、多くの疑問がある。それらの疑問を解明することで、問題の所在が明らかになる。
私の見解では、政策は確かに適切であり、正しいものであった。しかし、人生において絶対的なものなどない。いつの時代、場所でも、絶対的なものはあるだろうか? そうしたことは不可能である。シリアを過去60年または70年にわたって見れば、そこでは前進、後退、前後左右に、際限のない抜本的な変化が生じてきたのだ。
これは比喩的な表現ではなく、字義通りの意味である。地域の変化や世界の変化、そして世界の経済、政治、安全保障、文化の基盤が変わるなかで起こったこれらの変化について言っているのである。すべてが変わり、かつてとは似ても似つかない状況だ。どんなに正しかった政策であっても、それが長期間にわたって常に正しいとは限らないことは、誰にとっても明らかであろう。だから、どの段階で変更が必要だったのか、そしてそれを行わなかったのか、どの段階で変革が必要だったのか、そしてそれを行わなかったのかを知る必要がある。今日、同じ変革を行うことができるのか、それとも時宜を逸してしまったのか、政策を変更すべきか、修正すべきか、多くの問いがある。これらの問いを人民議会で、そしてシリア全体で議論しなければならない。
また、たとえ政策が正しいものであっても、そしてどんなに良いことにも、必ず負の側面があるのが人生の常である。負の側面が時間とともに蓄積し、それが解消されない場合、正しかった政策であっても、やがては負の政策へと変わってしまう。つまり、今日我々が多くの負の側面が蓄積していると言う時、責任の所在を明確にすることは困難である。ある特定の責任者や一部の責任者、または今日の機関に現状の責任を負わせることはできず、過去の責任者や機関を非難することもできない。では、誰に責任を問うべきなのか? 我々は方針について自問せねばならない。一般的な方針というものがある。誰がこの方針の責任を負うのか。これがもっとも重要な問いである。責任を特定することではなく、現時点で誰がその責任を負うべきかを特定することがもっとも重要なのだ。私が「方針」や「全体的な政策」と呼ぶ戦略的な方向性は、名前はともかくとして、政府の方針なのか、それとも党が責任を負うべき党の方針なのか。あるいはより重要な点として、これらの大規模な政策や方針が、大多数のシリア人が支持する大衆的な方針となっているのか。だが、こうした状況において、支援政策、雇用、健康、教育、高等教育、公共部門に関する政策など、我々が十分に議論しなかった政策が大衆に支持されると、責任者がそれに手を加えようとはしなくなる。のである。
もちろん、私はこれらの政策が問題の原因だと言っているわけではない。これらは正しい政策であり、政治的、社会的、経済的な観点からシリアにとって必要不可欠な政策である。あらゆる面でこれらの政策が必要である。しかし、政策が正しいということと、それが聖域化され、議論や改変が許されないものになることはまったく別問題だ。問題が政策そのものにあるとは限らず、むしろ政策への取り組み方に問題がある場合がある。その誤った取り組み方が、良い政策を負の政策に変えてしまうのだ。それゆえ、数ヵ月前に開催された党の会合で私は述べた通り、ある政策を低所得者層のための政策だと言っておきながら、後にその政策自体が、彼らの状況を悪化させる原因となっていることが明らかになることがある。我々は彼らのために政策を作ったはずだが、その結果が逆になってしまっているのである。
こうした方向性は、いかなる政府にも強制されるものである。どういう意味かと言うと、いかなる政府も、こうした大きな政策の枠を超えた提案や措置、政策、計画を立案することができないということである。それゆえに、いかなる政府であっても、これらの政策の枠外で解決策を探ることは禁じられている。つまり、将来いかなる政府が発足しても、市民に提供できるものが一つだけある。それは何か? それは、さらなる約束であり、それ以外の何物でもない。このような状況では、一般的な方針の欠点と責任者の誤りを区別することは不可能であり、すべての失敗を政府や大臣の責任とみなしてしまうことになる。誤りの原因を正確に把握できないということは、我々が真実を理解していないことを意味し、真実を理解しない者は解決策を見つけることができない。これもまた、明白な事実である。
現在の状況を要約すると、なぜ物事が進展しないのかという主張に関して、我々はある政策を押し付け、政府に目標を達成するよう求めている。ここで政府と言ったのは、特定の機関を擁護する意図はなく、複数の機関について述べたいからだ。政府にはこれらの目標を達成することが求められているが、そのなかには課せられた政策の枠外にある目標もあれば、これらの政策に矛盾している目標もある。政府が目標を達成するためには手段が必要だが、その一つが政策の変更である。しかし、政策の変更が禁じられているため、結果として進展が見込めない状態、いわゆるスタック状態に陥っている。これは、誰かに任務を遂行するよう求めながら、実行のための手段を与えないことに似ている。これは、ある人物に創造的な仕事を求めつつ、箱のなかで考えるように強制するようなものだ。創造性には箱の外で考えることが不可欠であるにもかかわらずである。もっとも重要なのは、我々が全体的に発展を求めながら、変化を拒んでいることである。発展を遂げたすべての西東諸国は、発展のために変革を遂げてきた。そのなかには、シリアと似た状況にあった国もあれば、異なる状況にあった国もある。つまり、我々は今、特定の思考様式を前にしており、みなが目指す発展の状態に到達するために思考する必要があるのだ。
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つまり、我々はこの国の一員として、まず適切だと考える全体的な方向性を共に定め、その上で実行手段を議論した後に、執行機関にその実施方法を決定させねばならない。このプロセスは完全に自由ではない。もちろん、執行機関が成功または失敗の責任を負うことが可能となれば、多くの場合、我々に与えられる選択肢には、損益と言う点で相反するものを含むことになる。しかし、政策の利点だけを受け入れ、欠点を特定の機関に押し付けることはできない。こうした主張は非客観的であり、プロセスは選択的でもない。具体例を挙げると、現在の為替レートと生産をめぐる選択肢がそうである。現在、為替レートと生産の間には矛盾があり、さまざまな産業や生産分野に影響を与えるとの批判が聞かれる。むろん、一般的には為替レートという言葉が使われているが、実際には、世界的なインフレと生産の関係として議論されることが多い。現実に目を向ければ、過去2年間、多くの国、とくに西側や裕福な国々では、インフレ抑制に注力し、利率を引き上げ、多くの対策を講じた。だが、その結果、倒産や閉鎖が相次ぎ、景気は後退した。一方で、それ以外の国々は、逆のアプローチを取り、雇用のために生産を支援し、インフレや為替レートに気を留めなかった結果、通貨が崩壊し、最終的には同じく景気後退に陥った。両者は異なる方向に進んだが、結果的に同じ場所に到達したのである。
こうした問題や選択肢について、シリアでは、公式な機関、専門家、関心を持つ人々、さらには素人など、誰も議論はしていない。誰も議論はしていないのだ。経済全体がこの方程式に支配されている状況で、我々が議論する経済措置のいかなるものも、この問題を解決しなければ、その効果は非常に限定的であるか、あるいはまったく奏功しないだろう。これは現実を否定する一環なのか、あるいは前進することからの逃避なのか、我々には分からない。しかし、この問題に取り組まねばならない。どの選択肢を選んでも、その選択によって進む方向に対する責任を負うことになる。第1の方向に進めば、利点と欠点があり、第2の方向に進めば、同様に利点と欠点がある。どちらが我々にとってより適切であるかを判断しなければならない。だが、多くの場合、最良の選択肢ではなく、最悪でない選択肢を選ばざるを得ないかもしれない。世界全体の状況が悪化している現在、すべての国が現状を改善するのではなく、最悪でない選択肢を模索している。つまり、損失を軽減するか、または大規模な財政赤字を一般財源から負担するか、あるいは中央銀行に負担させるかという選択である。これは過去数十年にわたって続けられてきたが、その結果、中央銀行が弱体化し、現在の厳しい状況下で為替レートを安定させる役割が弱まっている。
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大学の収容力を超えた数の学生を受け入れることで教育機会を提供するか、あるいはそれによって卒業生の質を低下させかという選択肢。あるいは低所得者層にとって不可欠な無料医療を提供するか、あるいはそれに伴う医療スタッフの流出によって、基礎的な医療サービスが低下するかと選択肢などがある。これらはさまざまな分野における例にすぎないが、同様の例は数多く存在している。これらはほんの一部であり、我々が直面する多くの難問であるが、これらの問題に取り組まなければ、シリアにとってもっとも適切で、もっとも害が少ない解決策を見つけることはできない。どの解決策も通常の状況下でさえ欠点や負の側面を含んでいるが、シリアの現在の状況や地域の状況、さらには世界の現状を考慮すると、その負の側面はさらに大きくなることは確実だ。だが、困難な選択肢があるということは、不可能を意味するわけではない。これらの状況を乗り越えるための可能性がまったくないわけではなく、困難な条件下でも改善を目指して行動する余地はある。つまり、この状況が絶望的であり、解決策がまったく存在しないという意味で捉えられるべきではない。
もっとも重要なのは、困難な選択肢が我々の政策への反逆を意味するわけでもなければ、国家が市民に対して負う義務を放棄することを意味するわけではないということだ。我々は社会主義の旗を降ろすことはなく、この立場に留まるだろう。しかし、その旗が硬直的で制約の多いものであってはならず、状況に応じて柔軟で動きのあるものでなければならない。困難な選択肢とは、ヴィジョン、政策、計画が、夢や理想ではなく、現実に基づいて構築されることを意味する。これらの困難な問題についての議論を延期することは、これまで我々がしてきたように、それらを泥沼に変え、我々を停滞させ、思考や行動を妨げることになる。その結果、我々はその泥沼から抜け出せなくなってしまったのである。それゆえ、これらの問題についての議論を先延ばしにすることはもはや許されず、今や緊急の必要性として議論が求められている。
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最初に、中小規模のプロジェクト支援という主題がある。これは以前にも話したことがある古くて新しい主題だ。だが、実際に動き出してからも、この主題に対する誤解があるのが現状である。ここで主題と言ったのは、これが特定の産業部門や専門分野、あるいは省庁に属するものではないからだ。中小規模のプロジェクトは、ほぼすべての分野に関わり、あらゆる場所で重要な役割を果たしている。それゆえに、これらは単なるプロジェクトというよりは、むしろ経済の基本的な構成要素である。だが、これを単なるプロジェクトとして捉え、役割が誤解されることがしばしば起きている。このプロジェクトが貧困や人々の困難な状況を改善するために有益であり、生計を支える手段として良いものだと考える者もいる。だが、実際にはそれ以上の意味がある。いかなる仕事も生計を支えるものであるが、中小規模のプロジェクトの本質は、単に小さいままであることではなく、成長していくことにある。小規模プロジェクトは小規模に成長し、次に中規模、さらには大規模へと発展することが求められる。つまり、これらは現状の一時的な問題を解決するためのプロジェクトではなく、成長の核となるものである。むろん、最初はそうなのかもしれない。だが、それが目標ではない。それが良い考えだと捉え、経済を支える一つの軸として評価する者もいる。しかし、実際には、これは経済の補助的な軸ではなく、経済の中枢である。この分野、あるいは主題が経済的に厳しい状況にある国々に適しているという意見もあるかもしれないが、そうではない。これは、東西の主要な工業国においても、経済の中枢を担っているのだ。経済統計や結果を分析すると、これらのレベルの経済活動がもっとも重要であることが明らかになる。つまり、これらは大国の経済にとっても中枢であるがゆえ、我々が置かれている状況においては、より重要だ。我々は成長途上の社会であり、農業を基盤とする社会でもある。このことから、これらのプロジェクトは農業社会にとってとくに重要である。さらに、我々は大規模な工業国ではないし、将来的にもそのようになる可能性は低いと考えている。シリアのような国々が、大規模な工業国になる可能性は低いが、経済的に成功する可能性はある。これは、また別の話であるが、必ずしも大規模な産業によって達成されるものではない。このようなプロジェクトが我々の経済にとって適しているのは当然である。
この主題における問題は資金ではない。この主題について議論は20年前に始まったが、私が先に述べたように、明確なヴィジョンを欠いていたことが問題だった。問題は、不明確なヴィジョンと不適切な管理にある。執行機関では最近、この方向で熱心な取り組みが進められており、ヴィジョンが徐々に明確になりつつある。しかし、それ以上に重要なのは、行政の構造があらゆる意味において無秩序であるということだ。現在その再編と権限および責任の再分配が進行中である。再編が進むことで、この主題が本格的に始動することが期待されている。もちろん、研修プログラムや資金提供の重要性は認識されている。それらはすでに存在しているが、それ自体は問題ではない。しかし、この種のプロジェクトは、極端な中央集権の下では成功することが難しい。なぜなら、こうしたプロジェクトの成功は、この分野に関連する多くの機関が効率を高め、独立性を向上させることによっているからである。つまり、さらなる地方分権化が必要であり、それはとくに地方行政機関にとって重要である。なぜなら、これらのプロジェクトはシリアのすべての地域に存在すべきであり、それを実現できるのは各都市、町、村に存在する地方行政だけだからだ。この主題は、世界の発展に伴い拡大する多くの分野と関連しており、この分野での成功は、生活水準の向上や個々の職業的発展に直接的かつ深い影響を与えるとともに、都市と農村間の開発の公平性や、社会のさまざまな層の間の平等に寄与するものである。
いずれにせよ、議論すべき主題は非常に多く、適切なものを検討し、承認する必要がある。そして、各機関が、提案、承認、実行、あるいは拒否の責任を負わなければならない。たとえ、拒否する場合でも、その結果に対する責任を負う必要がある。
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議会は、対話と活動を主導し、多くの課題に立ち向かううえで中心的な役割を果たすべきである。この役割を効果的に果たし、国民的役割にふさわしいかたちで行使するためには、人民議会の細則を発展させることが急務である。他の機関の進展と調和し、現在の課題、そしてこれまで話してきた主題のすべてに対応するためには、健全な細則がなければ、議会は役割を果たすことができない。そして、この状態が議会の弱点の一つとなっている。それゆえ、冒頭で述べたように、議会の活動手続きの改正が最優先事項である。最初に議論されるべきは、細則の改正であり、その重要性についてはすでに諸君らも理解しているであろう。例えば、司法との関係や前回の立法期間中に改正された条項に関しても、細則が原因となって、多くの権利者が司法機関を通じて権利を行使することができなかった。また、公的機関においても同様で、個人的権利や公共の権利が、議会の細則によって失われる可能性がある。これは、議会が他の機関の業務の健全性や法の遵守を監督する責務を負っていることに反するものである。さらに、議会と執行機関との関係においても同様である。議会は法案を可決した後、その実施を追跡する責任があるのか? またその追跡のための仕組みとはどのようなものか? 結果をどのように評価するのか? 大臣に質問を行う際の仕組みはどうあるべきか? 単に大臣を招致して質問すればいいのか、招致してから議会に出席するまでの間に体系的な仕組みが必要か? 予めに議題を決め、大臣に文書で質問するのか? だが、招致されているのは大臣ではなく、所属機関(省)であり、大臣は自身の所属機関の助けを借りて、これらの質問に答えるために準備を行うべきである。こうしたことが問われている。つまり、我々は一つの機関として活動し、他の機関とも組織として関係を築かなければならない。細則こそが、機関の成功の基盤であり、我々は全員で協力し、独立した機関としてこの細則を発展させるために努力する必要がある。
結論として、状況を変えることは、一部の人々が考えるほど不可能ではない。必要なのは、我々のアプローチを変えること、そして機関の活動を活性化させることである。この二つが実現すれば、それ以上を望む必要はない。だが、現行の思考方法や取り組みを続ける限り、この国のために多くを成し遂げることは非常に困難であると言わざるを得ない。我々の問題のなかには、外部からもたらされたものもあるが、我々自身が生み出した問題もある。それを変えるのは我々自身の手にかかっている。我々の思考と意志が、その変革の鍵となるのだ。
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諸君ら。国際的な紛争は、歴史を通じて1日も休むことなく続いてきた。時には静まることがあっても、完全に消えることはない。我々は今日、その紛争の一つの段階において、緊張が再び高まる時代に生きている。西側とそれ例外の世界の間で起きている紛争、すなわち覇権主義とテロリズムの勢力と、主権と安定を求める勢力との対立である。この紛争は、過去の戦争よりも、地理的にも分野的にも広範であり、それゆえに世界に与える影響はより複雑で深い。それゆえ、誰もこの紛争の影響を回避するという選択肢はない。政治、経済、安全保障、文化、その他のあらゆる分野においてその影響は及んでいる。シリアもまた、この紛争の重要な舞台の一つであり、紛争の緊張がその盛衰に影響を与えている。我々が選ぶべき選択肢は、ただ影響を受けるだけでなく、最低限でも我が国の国境内での出来事に影響を与えることである。そしてその能力は、軍事的、経済的、技術的な力のバランスに依存するだけでなく、敵に対する意志のバランスにかかっている。このバランスは、我々自身の愛国的能力に対する信念から始まり、自らの手で目標を達成するための真摯な努力によって完成されるものである。その努力は、行動し、生産し、解決策を探し、不可能を拒絶し、状況に従って諦めるのではなく、状況を変えるために取り組むことで成り立っている。シオニスト国家を支持する層の間で語られているその敗北感は、我々にとって示唆に富んでいる。例えば、こうした話題は、この政体が被った前代未聞の軍事的失敗や敗北がもたらしたものではない。絶対的な能力に対する信念が揺らぎ、精神的な敗北を招いたことから生じたものである。それは、パレスチナ人が土地を死守し、生命を脅かされた状況下で日常生活を守り続けることで達成されたものである。勝利や敗北は、戦場での結果よりも、まずは社会の精神に根づくものだ。固い決意、信念、意志が、シオニスト国家の未来への自信を打ち砕き、また、アラブ人民の心理的な正常化に向けた流れも打ち破ったのである。ここで言う心理的な正常化と、正式な正常化とは異なり、若い世代において、失望と帰属意識の欠如、そして西側とその傀儡であるイスラエルへの絶対的な従属によって形成されたものである。
ガザが示した例は、若い世代に目覚めをもたらし、西側が何世紀にもわたって築き上げてきた現実を、異なる視点から見て、読み解くきっかけとなった。長年の幻想が、わずか数時間の英雄的行為と数ヵ月にわたる抵抗によって打ち砕かれたのである。なぜなら、ガザの抵抗は、何世紀にもわたる強い帰属意識に基づいており、それゆえ、西側の反応はこれまでにないほどのヒステリックなものであり、イスラエルが単なる植民地プロジェクトの一部に過ぎず、その崩壊がプロジェクト全体の崩壊につながることを示していた。このプロジェクトは、ソビエト連邦の崩壊後、約30年にわたって語られている歴史の終焉というプロジェクトである。その本質は、約言すると、世界が完全に、そしておそらく永遠に、西側、とりわけアメリカに服従するというものだった。しかし、彼らは、この歴史がレバノンで終わることはなかったことに気づいた。2000年のレバノン解放、2006年のレバノンでの敗北、シリアが経験した史上もっとも過酷な戦争に耐え抜いたこと、そしてガザでシオニスト犯罪軍のイメージが崩壊したことは、その証左である。歴史は、諸人民、その大義、権利、信念、能力、そして主権が失われるときにのみ終わる。そして、諸人民は、自らの祖国、社会、歴史、信念への帰属意識を失うときにのみ終わるのである。植民地主義とシオニズムに対する我々の闘いは続いているが、それは外敵との闘いだけではない。むしろ、それはまず自分自身との闘いである。これは、我々一人一人のなかの闘いであり、敗北とは、文化や思想、精神や神経が、圧力や挑戦の前に崩れ去ることである。それは、自分自身を歪んだ姿で見る欺瞞的な鏡であり、自らの能力が失われたかのように錯覚させるものである。真剣な取り組みの第一歩は、この敗北を我々の心から根絶することである。そうすれば、我々は解放、建設、経済発展、繁栄の戦いに勝利することができる。後進性に対する我々の闘いは、この地域の一部の人々が教訓を学ぶことができないこと、何世紀も前に我々が陥った罠に再び陥ることだ。我々の闘いは、裏切り、無知、道徳の崩壊、視野の狭さとの闘いである。さもなければ、この地域に敵が立ち向かうことはなかっただろう。過去数年間、我々が直面したもっとも困難な課題は、自らの原則を守りつつ、他者を理解し、さらなる被害を防ぎ、敵が我々の分裂から利益を得るのを阻止することであった。そのため、我々は、その目標を達成するための提案がなされるたびに、それが成功する可能性がほとんどない場合でも、前向きに対応してきたのである。
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現在の世界的な危機的状況とその影響は、我々に対して、悲しみや裏切りの痛みを超えて、修復可能なものを速やかに修復するための迅速な行動を促している。こうした精神に基づき、トルコとの関係に関する幾つものイニシアティブに対応してきた。これらのイニシアティブは、ロシア、イラン、イラクといった複数の当事者から提案された。最初の提案は約5年前、あるいはそれ以前に行われた。その後、さまざまなレベルでいくつかの会談が行われたが、現実には目立った成果は得られていない。提案者たちは真剣であり、状況を正常化させることに真摯な関心を持っていたにもかかわらずだ。進展がないまま日が過ぎるごとに、被害はシリア側だけでなく、トルコ側にも蓄積され、もはや無視も否定ができない状況となっている。我々は、これらのイニシアティブに対処する際、我々の原則と利益に基づいて行動してきた。通常、隣接する国々の間では、悪意のない限り、これらの原則と利益が対立することはない。主権と国際法は、問題を解決しようとするすべての真剣な当事者の原則と一致している。一方、撤退とテロ根絶を条件とした正常な関係の回復は、隣国どうしにとって共通の利益である。しかし、原因に対処せずに結果を得ることはできない。我々は、戦争の前も後も政策を変更しておらず、13年半にわたる戦争において、トルコ国民を隣国の民として尊重し、その意向とトルコ政府の政策や意図を常に区別するよう努めてきた。これは、我々が原因ではないことを示している。我々は、政策や意図、方針を変更しておらず、隣国の領土を占領するために軍隊を派遣したわけでもない。また、テロを支援して隣国の国民を殺害したわけでもない。かつて兄弟と見なしていた国を支援することをやめたわけでもない。解決の第一歩は、和解の名のもとにごまかすことではなく、問題を率直に話し合うことである。解決の第一歩は、誤りの原因を特定することであり、それを見過ごすことではない。真の原因が見えていない問題を、どのようにして解決することができるだろうか? 正常な関係をとり戻すには、まずこの関係を破壊した原因を取り除く必要がある。それには、この状況を招いた政策の撤回が必要である。これは条件ではなく、プロセスを成功させるための要件であり、この要件には多くの重要な要素が含まれている。そのなかでもっとも重要なのは国家の権利である。我々は、どのような状況においても、自国の権利を放棄することはないし、他者にその権利を放棄するよう求めることもない。それが一貫した論理である。
つまり、イニシアティブの成功を実現するための基礎として、誠実な意志、そしてそれに伴う政策の見直し、あるいは、政策の見直しをもたらす誠実な意志が求められる。表現はともあれ、基本的な原則において、いかなる交渉プロセスであれ、それ成功するには、このプロセスが依って立つ基礎が必要だ。これまでの会談で成果が得られなかった主な理由の一つは、そうした基礎が欠けていたことである。この基礎は、さまざまな要素に基づくことができる。例えば、関係する各国間で合意された事項や国際法、国連憲章などがその基礎となると考えられる。また、各国にとって重要な主題に基づくことも可能である。例えば、トルコの当局者が継続的に強調しているのは、難民とテロの問題である。一方、シリアが継続的に強調しているのは、シリアの領土からの撤退とテロの問題である。我々は、これらの四つの主題、すなわちシリア側の主題とトルコ側の主題のいずれにも問題がないと考えている。また、トルコの一部の責任者が言うように、シリア側の主題に悪意がないのであれば、これらの主題に問題は生じないはずである。
これらの主題において合意が成立した際、両国の責任者による会談を通じて、後に決定されるレベルでの共同声明が発表されねばならない。そしてこの共同声明は原則文書を作るうえでの文書となり、その文書が今後の関係発展、撤退、テロ対策、その他の双方にとって重要な主題に関する措置の実施基盤となる。
この文書、そして原則の重要性は、交渉を整理し、いずれの側からも無責任な戦術や気まぐれを防ぐことにある。同時に、この文書は、イニシアティブを提案した者たちのよりどころにもなり、その成功に寄与するものである。つまり、シリアが現在取り組んでいるのは、基礎と原則を確立するという段階であり、これが成功すれば、後の具体的な措置の成功をもたらすものとなる。それゆえ、一部のトルコ政府関係者が時折行う発表、すなわちシリアは撤退が行われない限りトルコと会談しない」といった発言は、現実とはかけ離れている。我々は、この主題において体系的かつ現実的に取り組んでいる。重要なのは、明確な目標を持ち、その目標に向かって進む方法を理解していることである。いかなる潜在的な措置であっても、その基礎は主権であり、その限界も主権であり、その基準もまた主権である。
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そして、主権について語られる時、思い浮かぶのはゴラン高原だ。ゴラン高原の人々は多くの教訓を我々に示してくれた。彼らは、自らの土地から主権が失われても、その民の心から愛国心が失われることがなく、むしろその価値観のなかでさらに高まることを証明した。土地が占領されても、その魂は売り渡されない。愛国心とは、見せかけや口先だけのものではなく、根深い帰属意識と忠誠心のことである。彼らが我々に教えてくれたもっとも重要な教訓は、物質的な困窮よりも、精神的な抑圧がはるかに危険であるということである。物資の不足は、高い誇りや道徳心、尊厳と愛国的な価値観、そして創造的な知恵によって和らげることができる。しかし、精神的な抑圧は、集団的な自殺行為へとつながり、政治における奴隷市場において祖国を売り渡すことになる。ゴラン高原の人々は、60年以上にわたる完全な包囲のなかでも抵抗を続け、不当な併合、シオニストのファシスト的アイデンティティ、そして侵略的な占領に立ち向かってきた。彼らは今もなお、その地に留まり、シリアと心を通わせ、シリアのために生きている。彼らが祖国に戻る日が来るまで、そして祖国が彼らのものとして戻る日が来るまで、彼らはその意志を貫くのである。我々は、彼らと、祖国を守る者たち、殉教者とその家族、勇敢な負傷者たち、そして犠牲を払い、決して意志を折ることなく耐え抜いたすべての誇り高きシリア人を手本とし、彼らに倣うべきである。そして、レバノン、パレスチナ、イラク、イエメンで抵抗を続ける人々のように、我々も解放への道、尊厳と名誉、完全なる独立への道を進むべきである。
諸君らが祖国の重大な任務において成功することを願っている。
諸君らに平和とアッラーの慈悲と祝福があらんことを。
SANA(2024年8月25日付)が伝えた。
AFP, August 25, 2024、ANHA, August 25, 2024、‘Inab Baladi, August 25, 2024、Reuters, August 25, 2024、SANA, August 25, 2024、SOHR, August 25, 2024などをもとに作成。
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