アサド大統領(シリア軍武装部隊総司令官、大将)はダマスカス軍事アカデミーを訪問し、第36期司令官参謀課程を修了した士官と面談し、訓示を述べた。
訓示の骨子は以下の通り。
ここ(軍事アカデミー)での愛国的な軍事経験は知識へと変わる時、我々はこの知識を発展させ、様々な結論に至り、アイデアや経験を引き出し、戦争のあらゆる段階、あらゆる状況に対応する解決策を導き出すことができる。ここに本アカデミーの異議が隠されている。ここに、諸君らが教室内、そして外で毎日行っている対話の重要性が隠されている。
知識について話すとき、指揮と知識を分けることはできない。司令官の個性とその知識を分けることはできない。諸君らにとっての義務とは、自分たちの知識を高め続けることだ。なぜなら、司令官とは階級ではなく、知識において部下と分けられるものだからだ。さらに、司令官の知識とは、軍事的知識にとどまらない。政治を含むあらゆる分野を包摂するかたちで広がっている。
事実、軍事的な知識とは、シリアの愛国的歴史の中心に位置する軍組織、すなわちシリア・アラブ軍の立場を知ることから始まる。実際、独立した最初の日から、今この瞬間に至るまで、この祖国の歴史を作っている者は武装部隊、とりわけ軍だ。すべての士官がこの歴史観を自らの個性のなかに担っている。この歴史観は大部分の市民のなかにあることを知らねばならない。これこそが、シリア国民が軍組織を後押ししてくれる最大の理由の一つだった。
知識はまた、政治的知識によって裏打ちされている。知識は軍事のためのツールである前に、政治のためのツールだ。士官、そして戦闘員は、それなくして目標に至ることも、それが何たるかを知ることもできない。なぜなら最大の目標とは、政治的、愛国的な目標であり、その他の軍事的目標はそのあとに続くものだからだ。
つまり、士官は政治的目標を知る必要、それに至る方法、そしてこの方法を取り囲むものを知る必要がある。我々は今日、大海のなかにある。これまでも多くの演説で何度も述べているが、我々は荒れ狂う大海のなかにある。逆境に立ち向かい、嵐に立ち向かい、荒波に立ち向わねばならない。航法についての知識を持たねばならない。荒れ狂う大海について話すとき、シリアでの戦争や緊急事態のことを話しているのではない。
米国はイラクで1兆ドルを費やしたという。アフガニスタンでも1兆ドルを費やしたという。数兆ドルを誰に費やしたのか? イラク国民に対してか? アフガニスタン国民に対してか? 米国の企業に費やしたのだ。武器の供給、さまざまな装備の供給のためだ。つまり、米国人にとって戦争という行為とはドルそのものだ。そしてこのドルは米国の企業のためにつぎ込まれる。つまり、アフガニスタンでの敗北、イラクでの敗北、そして1994年のソマリアでの敗北、ベトナムでの敗北にもかかわらず、さらなる戦争、さらなる敗北が起こることを予想しなければならない。ドルは同じ枠組みのなかで還流し続けるだろう。
この言葉が意味することは何なのか? つまりは、この混乱した世界には、一つのこと以外に何らの場所もない。それは不屈の精神だ。不屈の精神を持ち、そのための道を進む国家こそが、この世界において居場所を見出す。域内で国益に沿って居場所を探す小国であれ、国際社会における立ち位置を模索する大国であれだ。不屈な国民こそが、祖国を見出す。不屈の精神がなければ、祖国は存在しない。
私が今話している不屈の精神とは、積極的なものだ。それは防衛態勢に似ている。我々が消極的な意味、そして守勢に立って不屈であることは許されない。我々は攻撃に転じねばならない。これは私が就任演説で述べたことでもある。我々は発展し、戦いの終わりを待ってはならない。戦いが終わる、あるいは戦争が終わったら、そうするなどと我々は言っていない。我々は戦争のただ中にあっても、発展のためにできることをする。ここでいう発展とは、軍事、経済、組織、思想といった分野すべてを含むものだ。もちろん、組織という言葉には、武装部隊だけでなく、国家、社会の組織化も含まれている。
士官、そして組織として、諸君らには軍事的な役割がある。しかし同時に社会的な役割がある、意識、教養を高める役割、そしてこの社会に存在する誤った概念を反駁する役割がある。軍隊生活、さらには一般の生活において、士官のように司令官としての個性を持つ者はそうはいない。だから、これは士官としての任務に加えて与えられるもう一つの課題であり、任務なのだ。この組織の広範囲にわたる役割がこのようにセンスィティブなもので、この組織の社会における重みゆえに、この組織に対する戦争は極めて熾烈なものだった。何よりもまず、政治的な意味においてだ。こういうと、みなは奇妙に感じるだろう。政治的な意味とはどのようなものなのかと言うだろう。数万という死傷者を出したこの戦争において、なぜ、政治的意味と言うのか? 私は言いたい。違う、軍に対する政治的な戦争は軍事的な戦争よりも危険だと。軍事的戦争は敵がわかる。戦闘方法を探すことができ、それは存在する。これに対して、政治的戦争は、軍の確信に対して行われるものだった。なぜなら、この軍が成功するためには、人民軍を名乗らねばならず、国民がこの軍が自らの軍であると信じることがなかったら、この軍がこの戦いで成功を収めることはできないからだ。
だから、戦争は当初、この組織の信頼とイメージを損ねようとするものだった。もちろん、それは失敗した。当初は若干の成果はあったが、第1に、我々の士官や軍関係者の意識的な行動によって、そして第2に、シリア国民の意思を前に失敗した。軍は政治のための道具で、非政治的だと言うとき、この軍は何を防衛するのか? なぜ戦うのか? 戦う動機は何なのか? 愛国的大義と言うとき、政治的大義がなく、我々が守るべき愛国的大義などあり得ない。愛国的大義とは政治的大義だ。
私は、いかなる愛国的なものも政治であると常に言っている。我々がそのために戦う愛国的大義とは、政治的大義なのだ。だから、プロの軍隊、非政治的な軍隊を欲し、軍事を愛国的なメッセージから、他の職業と同じ単なる職業へと変えようとする者がいれば、軍は人民軍ではなくなる。なぜなら、人民軍は国民に完全に帰属し、国民の信念に依拠し、その利益を防衛しなければならないからだ。
諸君らの知識、意思、大胆さをもって、我々は解放への道のりを進み続ける。諸君らの逞しさをもって、我々は権利を回復できるだろう。国民が諸君ら、そしてこの偉大なる組織を信じることで、シリア・アラブ軍は枢軸となり、独立の維持、信念の強化、祖国の防衛を保証するものとなる。
SANA(10月27日付)が伝えた。
https://www.facebook.com/watch/?v=286370243388738
AFP, October 27, 2021、ANHA, October 27, 2021、al-Durar al-Shamiya, October 27, 2021、Reuters, October 27, 2021、SANA, October 27, 2021、SOHR, October 27, 2021などをもとに作成。
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