アサド大統領はヒムス市で再開された優秀者国民センターを訪問:「祖国愛は感情ではなく、祖国のための仕事、知識、何かを成し遂げること、祖国を防衛すること、祖国のために犠牲を惜しまないことである」(2022年9月11日)

アサド大統領は、ヒムス県ヒムス市を訪問し、同県の優秀者国民センターを訪問した。

優秀者国民センターは、2009年に開設し、2012年に戦闘の被害を受けて閉鎖を余儀なくされていたが、アサド大統領の訪問に合わせるかたちで13年ぶりに再開した。

アサド大統領は研究・教育関連の部門を見学、優秀創造機構の理事、優秀者国民センター科学問題評議会の評議員、専門家委員会の委員らと会談し、科学や経済の発展に合わせた教育の実施、生産・サービス部門に研究を反映させるための支援の方途などについて議論を行った。

議論のなかでの、アサド大統領の主な発言は以下の通り。

https://www.facebook.com/SyrianPresidency/posts/pfbid03p4fhbPBQvgeAg8prHqA75pWuypvL5V5dWc6QCZzXAGLa9PjGpqToAYtBJdjTg2Fl

https://www.facebook.com/SyrianPresidency/videos/780491896550045/

この機会は喜びの機会ではある。だが、この喜びには一抹の悲しさが混じっている。このセンターが失った歳月への悲しさ、このセンターや多くのセンター、施設、さらにはシリアのさまざまな地域の都市を破壊したテロ行為がもたらした荒廃への悲しさ。それは発展と近代化のプロセスを阻害し、祖国を何十年も逆戻りさせてしまった。にもかかわらず、荒廃によっても、優秀者国民センターの教育プロセスが停止させられることはなかった…。学生、家族、職員にはこの教育プロセスを継続し、あらゆる困難な状況を克服しようとする意志があった…。

科学の分野においては、10年を経て新たなセクターが登場した。その一方、シリアでは同時に大きな変化があった。つまり、戦争がなかったとしても、10年という歳月は、一つの社会が自然と変化するに十分な時間だ。だが、戦争があれば、変化は根本的なものとなり、教育プロセスも、一方で科学の変化、他方で社会や子億民の変化に対応するための発展に向けて、その本質が変わってしかるべきだ。つまり、我々は、この戦争から得た教訓を通じて未来と発展に向かって思考しなければならないのだ。

センターが設立された2009年、当時の基本目標は、優秀なスタッフとともに、シリアで起きている発展プロセスを支援することにあった。あぜなら、輸入による発展は不可能で、国産の科学、思考、発明な生産が不可欠だからだ。これに対して、シリアでの出来事を経た今日は、学びとった教訓に基づいて、卒業生らに対して新たな任務が付け加えられる。それは単に科学の分野に限られず…、社会の分野にも及ぶ。無知がシリアを破壊したたが、この無知は人々を二つの方向に向かわせる。一部は、さまざまな誤った名目のもとでのテロに向かい、別の一部は祖国を愛するようになったが、起こっていることの真相を当初から理解していない者だ。無知が拡散するなか、彼らは誤った方向に向かい、知らぬ間に、意図せずテロ、そして敵に従属してしまった。我々が未来のために考えねばならない基本的役割とは、戦前とは異なっている。だが、それを実行するためには、このセンターに戻り、今後はさまざまな方向に進まねばならない。

知識を発展させるには、もちろん最初の段階で情報に依拠しなければならない。だが、知識を活かすには、分析力を高め、情報を分析し、活用しなければならない。分析を活かすには、対話力を身につけねばならない。なぜなら、対話は分析を個人的な事象から集団的な事象へと高めるからだ。集団的な事象はもっとも有益で、実りが多く、生産的であり、概して正しい。これが一つだ。もう一つは、卒業生の個人的な資質に力点を置くべきだ…。教師や教官はこの点を意識しなければならないし、学生もこの点を意識し、自らの個性を特定の方向に発展させることが義務であることを知らねばならない。

…分析と対話は科学的な側面、個人的な側面と結びついた資質で、両者を分かつことはできない。センターが開設された2009年、個性を発展させることも基本的な主題だった。つまり、我々は、優越的であることと優秀であることを区別するさまざまな側面があると述べていた。だが、基礎は個性であり、この原則は変わらない。変わったのはその要件だ。我々が戦時中に見てきた状態に戻るのであれば、我々が力点を置かねばならない点を明確に見ることができる。あなた方にとって自明のことから話を始めたいと思う。個性にとって第1のポイントとなるのが自国愛なのだと言いたい。だが、1点明らかにしておきたい。それはこの大義が感情としての愛ではないということだ。祖国には我々の感情が必要なのかと訊かれても、違う。我々の感情は必要ない。問題はまったく違っている。祖国愛とは実践であり、行動だ。祖国に必要なのは、我々の感情ではなく、我々の行動だ。我々には祖国のために捧げることが必要だ。祖国のために犠牲となってくれる者、祖国のために働く者、祖国に捧げる者、祖国を発展させる者、祖国を防衛する者を、祖国は必要としている。これこそが祖国愛だ。

犠牲とは単に命を懸けた犠牲ではない。そこにはさまざまなかたちの犠牲がある。最大限の努力をすることも犠牲だ。過酷で不当な状況下での行動…も犠牲だ。祖国を愛する優秀な者は多くいるが、彼らは戦時中に何も捧げることはなかった。祖国を愛する複数のグループがあるが、状況が困難だと決めつけ、背を向けて、移住し、苦しみに耐えようとしないものもあった。それらは、祖国を愛していたが、複数の祖国を同時に愛していた。こうした愛には価値はないし、優秀であることにも価値はない。祖国への愛、あるいは祖国愛という言葉をもって話し始める時、祖国を愛していることが重要ではない。どのように祖国を愛するかが重要なのだ。行動、犠牲、防衛、知識、献上、実践などだ。これが一つだ。また別の側面として、どのように祖国を愛するかを自問するだけでは十分ではない。非常に重要な問いがあるからだ。祖国が持つ何を愛するか、だ。こう質問すると、皆は、土地、あるいは国民と言うだろう。国民どうしが共通のもの、概念、習慣、伝統、信条、自らが信じるすべてを通じて愛し合う。これが愛だ。祖国を愛する時、我々はこれらを愛し、帰属する。これらに帰属できなければ、祖国に帰属することなどできない。これらに背いたり、離脱したりすることはできない…。これらに帰属し、改革、そして祖国への愛を実現しなければならない。

共通の概念、伝統、習慣に帰属するためには、歴史を理解し、知り、読まねばならない。なぜか? なぜなら現在とは過去の産物だからだ。現代を現代から発展させることはできない。過去への理解を起点として現代を理解しなければならない。現代と過去を理解した時、我々は自分たちの問題に対処でき、今後の問題に対峙し、祖国がいかなる危機であれ、将来危機に陥ることを抑止する。

我々はこれらの概念すべてを愛し、祖国のために行動し、犠牲となる方法…、それはこの祖国の言語だ。なぜ言語なのか? それは雄弁に意見を表明するためか? そうではない。自らが帰属するものにのめり込むためか? そうでもない。言語とは文化とアイデンティティの担い手だからに尽きる。多くの文化、思考、概念、習慣、伝統を持ち合わせていながら、それを担うものがないとすれば、その価値はゼロだ。つまり、アイデンティティは存在しない…。なぜそのようなことを言うのか? それは、今日の世界で科学や生産を担う言語が英語だという誤った理解があるからだ。それは正しい主張ではない。自らに敬意を払っているすべての先進国は自らの言語をもって生産に携わっている。母国語による科学的な生産にだ。その一方で、世界をつなぐ言語は外国語である。ここで明言したいのは、外国語教育は、それなしに他国の文化を理解することができないがゆえに必要だ…。諸外国の言語を理解していなければ、科学、発展、社会の動き、歴史の流れをもたらす根本的な哲学を理解することはない。なぜ、先進国は自らの言語に関心を払うのか? なぜなら言語は第1に、文化の担い手としてアイデンティティを表現しているからだ。そして、もう一つの側面として、言語はすべての国民を結びつけるもっとも重要な要素だからだ…。

規律は思考から始まる。思考の規律。我々が方法論として名づけたものだ。思考の組織化、時間の尊重…。時間は貴重だからだ。後進国や開発途上国は時間が貴重だということを知らない。法律順守、組織遵守。これらを神聖視すること。神聖視といっても、それは不変だという意味ではない。不変であることと、発展することの間にはいつも亀裂がある。だが、これらがある限りは、それを遵守しなければならない。どんな発展の仕組みを持っていようと、混沌のなかからは何も実現し得ない。発展と進歩の違いはそもそもこの点にある。

…尊敬の一般的な意味について話そう。尊敬とは、我々が尊敬する人を反映してはいない。尊敬とは我々自身、我々の序列を反映している。他人を尊敬する時、我々は自分自身を尊敬している。自分自身を尊敬する時、他人も我々を尊敬してくれる。彼らが我々を尊敬してくれれば、支援してくれる…。国民的な行動において、我々が成功するには、他人の支援が必要なのだ。

これらすべてが帰属という概念を形作るうえで極めて重要な点となっている…。これらを欠いたまま、あなた方が狭量な優秀者であるなら、理論科学以外では進歩できず、祖国発展のプロセスの一部とはなり得ない。これらの点こそ、我々を知識、実践の両面において優秀者たらしめ、我々が直面する社会問題の解決策を提示する能力を与える…。あなた方がこうしたヴィジョンを時間とともに身に着けるのであれば、社会的な役割を実行し得るだけ成熟したことになる。科学、文学などの授業で優秀であるだけでは十分ではない。社会に日々影響を与える能力がなければ、これらの知識に価値はない。なぜなら、社会が科学的進歩のもとに建設されるように、知識、科学的進歩、科学の応用は進歩した社会のもとで行われるからだ。プロセスは相互作用的なのだ。

愛すべき学生諸君。私が今日、このセンターに戻ってきたのは、このセンター、あるいはシリアのそれ以外のセンターの破壊にかかわったすべての者にメッセージを発するためだ。テロリストだけのことを指しているのではない。テロリストは無知であり、彼にとって、科学センターがあろうがなかろうか、知識があろうがなかろうが、同じだ…。だが、私はこれらのテロリストに破壊行為を行わせた者、テロリストにシリアを破壊させた者…について話している。こうした勢力は科学の価値を知っている。こうした勢力、例えば米国がイラクに進攻した際の最初の狙いは、科学者を殺害することだった。彼らは当時、科学者がシリアに難民として入ることを許さないよう求めてきた…。フランスは1830年にアルジェリアを占領した際、アラビア語の教師らをまず殺害した…。つまり、これらの勢力は知識が何を意味するのか、言語が何を意味するのか、文化が何を意味するのかを熟知していた。

私が今日戻って来たことは、破壊に立ち向かうための建設というメッセージだ。無知に立ち向かうための知識というメッセージだ。学校、科学センター、啓蒙センターが、彼らが狙う最初の標的であるのなら、我々の最初の目標は、建設のなかにあるというメッセージだ…。このプロセスは、人間を再構築するプロセスであり、学校ではなく、もちろん家庭において始められるものだ。それは、学校において発展し、大学、大学院において成熟し、その後社会のなかで醸成される。学校は常にもっとも重要な一部をなしている。なぜなら、学校は知的人格、社会的人格、愛国的人格を養うからだ。あなた方がここに戻って来たことは、テロリストの背後に身を置き、破壊を支援し、シリアへの陰謀をめぐらせたすべての者にとっては悪いメッセージだ。一方、祖国の民にとって…、それは喜びのメッセージ、誇りのメッセージ、希望のメッセージだ…。

SANA(9月11日付)が伝えた。

AFP, September 11, 2022、ANHA, September 11, 2022、al-Durar al-Shamiya, September 11, 2022、Reuters, September 11, 2022、SANA, September 11, 2022、SOHR, September 11, 2022などをもとに作成。

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